運動会というのは、本番当日もその練習日も、とくに何時間費やすべきかの指針は示されていない。その結果として、現実には運動会の練習は、体育の授業中におこなわれる。春や秋の運動会シーズン前には、しばしば特別時間割が組まれて体育の授業が多くなる。その分、運動会後には体育以外の授業が増える。
体育の授業では、体育としてやるべきことがあり、その内容は学習指導要領に記載されている。だから、運動会のための体育ではない。目指されるべきは、体育で学習したことが運動会で披露されるという流れである。だが現実には、運動会の練習が先にあって、その練習内容が体育で教えるべきことに関連づけられるかたちで運用されている。
「次回はもっとよいものを」の声
このように学習指導要領上は、運動会はその内容も時数もとくに規定されることもなく、学校現場の裁量にまかされている。たしかに教科でもない運動会の内容にまで、いちいち国や教育委員会が口を出すべきではないだろう。学校現場が「自主的に」、運動会の内容を考えればよいはずだ。だが、そんなふうにして学校現場の自主性にまかせてきた結果、ここまで巨大でアクロバティックな組み体操が、できあがってしまったことに注目すべきである。
巨大な組み体操を披露すると、保護者や地域住民から盛大な拍手が送られる。子ども(一部を除く)も先生も、大きな満足感を得る。次の年、保護者、地域住民、子ども、先生のいずれにおいても、ハードルは一つあがってしまっている。
学習指導要領上にそのあり方が明記されているわけではないために、何らかの制約がかかることもなく、「次回はもっとよいものを」と高い目標が設定されて、巨大化・高層化が着々と進んでいくのだ。まるで、グレーゾーンに置かれて、「自主性」という名のもとに肥大化してきた部活動とよく似ているではないか。
「自主性」というマジックワード
運動部活動の研究をリードする中澤篤史氏(早稲田大学)は、その新刊『そろそろ、部活のこれからを話しませんか―未来のための部活講義』(大月書店、2017)において、部活動問題の核心には「自主性」という言葉があると指摘し、「確かに、『自主性』という言葉は魅力的だ。しかし、その反面で、危険な魔力も持ち合わせた、恐ろしいマジックワードでもある」(226頁)と述べる。
その危険な魔力とは、一つが「『自主性』それ自体は良いことなので、『自主性』と言われると、なかなか反対できない」ことであり、もう一つが「実際には強制されているにもかかわらず、『自主性』と言われてごまかされてしまうこと」(227-228頁)だという。