自主性は、大切なものとして尊重される。他方でそれは強制性を覆い隠す役割ももっている。それゆえ部活動は(さらには運動会の組み体操も)、強制性を伴いながらも、自主性という名のもとに肥大化してきたのである。

「子どもがやりたがっている」で正当化

「自主性」というのは、なるほどマジックワードだ。自主性と言った途端に、その活動は美化され正当化される。

私自身、大学という教育機関に勤める立場として、学生の「自主性」には心奪われる。とくに私が指示したわけでもないのに、みずから本を読み、感想を伝えてくれる学生がたまにいる。これぞ学生の鑑だと、コメントにも熱が入る。

そうは言っても幸いにして私はそこまで教育熱心なタイプではない(悲しいかな、きっとそれが学生にも伝わってしまうのだろう)ので、学生にコメントを返してそこで終わりか、あるいはその後もほどほどのやりとりが続くだけだ。おそらくもっと熱心な大学教員のもとでは、返したコメントによって学生が意欲を高めてさらに自主的に学びを深め、それに教員が再び応じて……と毎回多くの時間を費やす無限のループへと入っていくのだろう。学習者の「自主性」は、教育においてとても魅力的であるがゆえに、歯止めがきかない。

組み体操や部活動においても同様だ。「子どもがやりたがっている」「保護者が欲している」のであれば、それを押しとどめにくい。その陰に隠れた、組み体操の安全性を懸念する声や、長時間の部活動に苦しむ生徒、保護者、そして教師の姿は、「自主性」という語に覆い隠され、見えにくくなってしまうのだ。

内田 良(うちだ・りょう)
名古屋大学大学院教育発達科学研究科准教授。1976年生まれ。名古屋大学大学院教育発達科学研究科博士課程修了。専門は教育社会学。日本教育社会学会理事、日本子ども安全学会理事。ウェブサイト「学校リスク研究所」「部活動リスク研究所」を運営。著書に『ブラック部活動 子どもと先生の苦しみに向き合う』(東洋館出版社)、『教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」』(光文社新書)、『柔道事故』(河出書房新社)などがある。Twitterアカウントは、@RyoUchida_RIRIS
▼編集部おすすめの関連記事
「夏の甲子園」は誰のためにあるのか