メディアの犯人探しでは何も解決しない
岡光氏の姿を捉えることができなかったメディアはさぞかし悔しがったことであろう。「これでは絵にならない」とマスコミではよくいうが、事件の中心人物の写真映像を撮れなければ、どうしても扱いが小さくなってしまうものだ。
記者会見では、大臣が事件は甚だ遺憾であり、責任をすべて引き受ける旨の発表をした。そもそも大臣就任直後の事件発生で、大臣に責任がないのは明白であったが、あえて自分で責任を引き受けるとしたことが肝心だった。東大卒など優秀な人が集まる組織でも信頼関係がなければ、まともな成果などあげられるはずがない。
なぜ、ここまで岡光事務次官を記者から守らねばならなかったのか。それは、これ以上、岡光事務次官に余計なことをマスコミに対して話してほしくなかったからだ。新しい事実が発覚するとセンセーショナルに書き立てられてしまう。最近の籠池夫妻にまつわる国有地払い下げの問題でも同じことがいえる。問題の本質それ自体が大した事案でもないのに、次から次に新しい事実が飛び出し、それがワイドショーをはじめとするメディアによって垂れ流され、ボディブローのように内閣支持率が下がっていく。
歴史的に考えても、内閣にとってスキャンダルの軽重はあまり問題ではなく、むしろ、メディアが報じる量によってダメージが決まってしまうということだ。であれば、もしスキャンダルが起きたなら、1回の謝罪会見ですべての事案を公開し、謝罪してしまうことが大事なのである。10のスキャンダルを1回で報道されることと、5のスキャンダルを1回ずつ5回に分けて報道されるのを比べれば、ダメージは「1回で10」のほうが少ないのである。すでに明日の朝日新聞・朝刊に岡光事件が出ることがわかっている。本来であれば朝日新聞にも情報を与える必要はなかったが、出る以上、これ以上の情報をメディアに与えてはならない。マスコミに話したことは「任意の自白」として、検察に有利な証拠になってしまう。厚生省の組織的な汚職事件などになっては内閣がひっくり返ってしまう。岡光事件は、岡光事務次官のみの事件として進んでもらわねばならなかった。
しかし、実をいうと、私は岡光事務次官を無罪に導くわずかな可能性があると思っていた。本人が自白した事案で相当に難しいかもしれないとは思っていたが、可能性はゼロではなかった。そのためにも岡光事務次官を記者の前にさらけ出すことはなんとしても避けなければならなかったのだ。岡光事務次官の厚生省脱出に成功した私は、捜査当局との絶体絶命の闘いの準備を進めることにした。(この話続く)