日ソ中立条約の破棄と対日参戦もルーズベルト大統領の要請によるものだし、北方領土へ兵を進めたのは米戦艦ミズーリ号の甲板上で日本が降伏文書にサインした9月2日以前。つまり日本とソ連はまだ戦争状態にあったのだから、北方領土の占領は不法ではない。しかも島民を一人も殺さずに返還してやったのにどこに文句がある―というのがロシア側の言い分だ(以上のことは08年刊行の拙著『ロシア・ショック』でも言及している)。

これは日本の外務省、日本の教科書が国民に説明してきたことと100%異なる。そもそも「北方領土は我が国固有の領土」というスローガンからして大嘘で、強いて言えばアイヌ固有の土地かもしれないが、日本固有の領土と証明されたことは一度もない。

世界のルールでは、領土は戦争で取った者勝ちである。納得できなければ、武力で取り返すしかない。北方領土に関しては先の大戦でロシアの領有がアメリカ以下の連合国から承認された。「日本固有の領土」と主張するのは、日本が第2次大戦の結果を受け入れていないことになる。だからロシアの政治家や政府高官から「第2次大戦の結果を受け入れていない状態では、(平和条約締結や領土返還の)交渉に応じることはできない」という発言が頻繁に出てくるわけだ。プーチン大統領も「第2次大戦の結果を受け入れるのが話し合いの原点」と繰り返してきたが、今回はさらに踏み込んで、冒頭のように「ダレスの恫喝」に言及した。「ダレスの恫喝」とは56年8月に日本の重光葵外相とジョン・フォスター・ダレス米国務長官がロンドンで会談した際の出来事。ダレスが沖縄返還の条件として、北方四島の「一括返還」をソ連に求めるよう重光に迫ったのである。

サンフランシスコ講和条約にソ連は署名しなかったため、日ソの国交正常化は56年10月の日ソ共同宣言でなされる。このとき平和条約締結後に歯舞、色丹の二島を日本に引き渡す二島返還論で両国の交渉は妥結寸前まで進んでいた。そこにアメリカの横槍が入る。

「ダレスの恫喝」である。東西冷戦が過熱する状況下で、領土交渉が進展して日ソ関係が修復されることをアメリカは強く警戒していた。二島返還はそもそも日本政府が拒否していたという見方もあるが、いずれにせよ、日本が国後、択捉を含む四島返還を要求するようになった背景には「ダレスの恫喝」、すなわちアメリカの圧力があったことをプーチン大統領はズバリ指摘したのだ。結果、日ソの交渉は折り合わず、日ソ共同宣言では領土問題は積み残されて、平和条約も結ばれなかった。