両面から見ないと、物事の本質は分からない

【田原】濱松さんは、どんなお子さんだったのですか。

【濱松】私は両親が2歳のころに離婚しています。子どものころ母に「お父さんはどうしていなくなったの?」と聞いたら、母は「タバコを吸ってるからだよ」という。そのときはまだ離婚とかわかっていなくて、「うちはタバコ嫌いな家なんだ」と母のいうことをなぜか信じていました(笑)でも、母はとても優しく僕を育ててくれました。

【田原】資料を読むと、濱松さんは子どものころから、物事を1つの側面だけでなく反対側からも見ないと理解できないと考えていたとありました。

【濱松】性格的にはリーダー気質でした。たとえばクラスでいじめがあったとします。普通は「いじめる側が悪い」で終わってしまいますよね。もちろんいじめは絶対にいけない。でも、いじめる側にも何か事情があったのかもしれない。この例はふさわしくないかもしれませんが、やはり両方から話を聞く、両面から見ることをしないと、物事の本質はわからないんじゃないかとずっと思っていました。それは今でも自分の中に強くあります。

【田原】高校1年でアメリカへ、2年のときオーストラリアに留学された。母子家庭で経済的に大丈夫でしたか。

【濱松】母は調理師として障害者施設や児童養護施設でコツコツ働いていました。大学だけは国公立に行ってもらいたいといわれましたが、留学したいといったときは嫌な顔一つせずお金を出してくれた。私も含め息子3人、何不自由なく育ててもらって、本当に感謝しています。

One JAPAN/One Panasonic代表・濱松誠氏

【田原】留学先で何か発見はありましたか。

【濱松】発見というより、うらやましいなと思いました。1年生のときは西海岸に行ったのですが、みんなオープンマインドで、道ですれ違っただけで「ハーイ」と挨拶をする。日本とこんなに違いがあるのかと。

【田原】高校時代はバスケットボールとESSをやっていたそうですね。どっちを熱心にやったんですか。

【濱松】熱心にやっていたのはバスケットです。でも、昔から一つのことだけするというのが性に合わず、二足のわらじでESSもやっていました。体育会系の部活と文化系の部活の両方やっているというのは、学校でも私ぐらいだったと思います(笑)当時の恩師から卒業時にいただいた言葉にも「二足のわらじのスタイルが印象的でした。いつまでもその姿勢を貫いてください」と言われました。

【田原】大学は大阪外国語大で、ヒンディー語の専攻でした。留学してESSだったから外大はわかる。でも、なぜヒンディー語だったんですか。

【濱松】日本の文化は、乱暴にいうと欧米と中国の文化を足して2で割ったような感じですよね。先ほど物事には両面があるという話をしましたが、だとすると、欧米や中国以外の文化を知っておいたほうがいいと考えました。その他で誰もやっていなくてユニークネスがあるのはインドかアフリカ。国という単位で観たら、インドかなと。

【田原】いまでこそインドは注目されていますが、濱松さんが学生のころはそうでもなかったね。

【濱松】はい。ヒンディー語をやっているというと、「インド? カレー、お腹壊すやろ」というような言われ方をしてましたから。当時は身近な国ではなかったから、そう思われるのも仕方がない面があったのかもしれません。しかし、だからこそ実際に自分で行って、文化や経済、価値観、エネルギーを感じたいなと。

【田原】インド、行ったんですか。

【濱松】2カ月かけて縦断しました。やっぱりカオスでしたね。インドにはいろんな民族、言語があって、多様性という言葉がきれいすぎるくらい混沌としていました。まるでマグマが爆発するかのようなエネルギーを感じて、衝撃的でした。

【田原】その後、ニューヨークにも1年間留学される。こちらはどうでした?

【濱松】インド以上に多様性とエネルギーを感じました。なんというか、他者を許容する文化があるんですよね。最近は少し変わりつつあるかもしれませんが、日本はやはりモノカルチャーで、みんなと違う人を排除しようとするじゃないですか。でも、ニューヨークだと、肌の色や国籍、性別など関係ない。自分の気質はニューヨークのほうが合っていました。

日本のプレゼンスを上げたくて、松下に入った

【田原】大学卒業後は松下電器産業(現パナソニック)に入った。インドやアメリカで刺激をうけたなら、普通は商社でしょう。どうして電機メーカーだったんだろう。

【濱松】就活は電機メーカーに絞っていたわけではなく、商社も志望はしていました。どちらもやっていることはグローバルですから。インドやアメリカでの経験も、メーカーを志望する理由の一つになっています。インドでは、ドービーと呼ばれる人たちや女性たちがガンジス川で洗濯をしていました。カースト制や慣習の一つではあるのですが、苦労して洗っている様子を見ていて、「ここに洗濯機が100台あれば、この人たちも幸せになれるのに」と思った。また、アメリカでは、海外にいるからこそ日本の良い点・悪い点を感じることが増え、自然と日本のプレゼンスを上げたいという思いが湧いてきた。そうした経験が背景にあって、松下電器に入社しました。

【田原】僕は松下幸之助さんに7~8回合っています。山下俊彦さん(3代目社長)にも5~6回は話を聞いたし、前会長の中村邦夫さんは高校の後輩に当たる。歴代の幹部と話すと、とてもいい会社だという印象を持ったけど、中から見て松下はどうでしたか。

【濱松】最初に感じたのはプレッシャーでした。私が配属されたテレビ事業は花形部署。ただ、ちょうどサムスンに追い上げられていた時期で、みんなが厳しさを感じながら仕事をしていました。その様子を見て、自分はすごいところに入ったんだなと。

インドでデジカメを売る

【田原】希望して、インド市場の担当になったそうですね。それはやっぱりインドを勉強していたから?

【濱松】そういう文脈も当然あります。もう1つは、成長市場をやりたかったんです。大企業は低成長だとよくいわれますが、それはマーケットしだい。これから伸びるマーケットを選べば、ベンチャーでなくても事業の成長は経験できるし、そういう事業を自分がリーダーとなって引っ張っていきたいという思いがありました。その意味でインドはぴったりでした。

【田原】インドではどんなことをしていたのですか。

【濱松】当時社長だった大坪がインド大増販プロジェクトを立ち上げて、私はデジタルカメラの事業推進担当になりました。もともと日本の商品を持って行って売っていたのですが、現地の売れ筋は4000~8000円くらいで、日本の2万円以上するデジカメは売れません。そこで日本のエンジニアとインドの橋渡しをしながら、インド専用モデルを開発することに。働いていたのは大阪で、出張で1カ月のうち1週間はインドという生活でした。