「その人/その場/その時」広告には賞味期限がある

「わんぱくでもいい。たくましく育ってほしい。」

だから丸大食品は、やはりまだ必要十分とは言えない当時の栄養面の充足を促すべく、ハムという良質のタンパク質の提供を通して「社会の子供」たちを見つめ、強いては社会の未来への意思を示したのだ。広告は多数を取りに行く経済行為である。消費者の認めてくれることしか訴求できないし、裏返せば消費者の欲しい価値を提案することに尽きるとも言える。1970年の日本社会は丸大食品の提案を受け入れた。そしてその広告キャンペーンは数年にわたり展開されることになる。

ぼくが感じた違和感は2016年の日本社会から見た1970年の価値観に他ならない。その40数年の間に「社会の子供」は「個人の子供」になった。道で泣いている子供に声をかけようとすれば通報されかねない世の中だ。「わんぱくでもいい」のコピーをそんな立ち位置から見ていた。そりゃ違和感も引っかかりもあるわな。

広告には賞味期限がある。「その人/その場/その時」にしか有効ではないのだ。例えば「2016年首都圏20、30歳代女性会社員」に有効なメッセージは、同じ「首都圏20、30歳代女性会社員」でも「1985年」と時を違えれば、同じ結果にはたどり着かない(逆もまた同じ)。どんなコピーも(それがどれだけ話題になろうとも)賞味期限を過ぎると広告経済的には無価値なものになる。ある社会に受け入れられたメッセージが、社会が変質すればその社会においては拒絶されることも異例ではない。前出の「日本のコピーベスト500」において第一位(異議なし)に選ばれた「おいしい生活。」(西武百貨店、1982)も同じこと。そのコピーで、2016年の百貨店でモノは売れまい。それは紛うことなき事実であり、その事実をある種の諦観をもって横目で見ながら仕事をしてきた(それがダンディズムであるとすら思い込み)。

しかしどうやらまだぼくの広告の見方が甘かったようだ。「売る」仕事を終えた広告は、次の仕事を始める(こっちは金にはならないが)。そんな広告を「読んで」みると、時代の有様も人間の営みも鮮やかに感じることができる。まさに「その人/その場/その時」のすべてを、時代を、社会を、人間を丸ごと凝縮しているかのようだ。ようだ、じゃない。そうなのだ。実に「広告をナメたらアカンよ」なのだ。

広告の話の最後に広告です。かようなことを書き連ねた本を出版いたしました。「男は黙ってサッポロビール」「そうだ 京都、行こう。」「おいしいものは、脂肪と糖でできている」など25のテーマで、広告から時代や社会や人間を及ばずながら論じております。題名はまさに上記の「広告をナメたらアカンよ」であります。

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