鍼灸院からレストラン、靴屋まで経験
林の傘人生の原点は幼少期にある。小学校に上がる前のこと、近所に番傘を作る職人が住んでいた。親戚でもあったため、林少年は勝手に家に上がり込んで、傘作りをずっと見ていたという。
「傘はきれいだなと思っていました。当時、番傘は貴重品で、年に2回のお祭りのときしか買えなかったんです。行商人が売りに来て、買うと傘に名前を入れてくれる。それが憧れでした」
とは言え、傘職人に弟子入りしたわけではない。高校卒業後は武術に興味を持ち、合気道の修業を経て、東京で鍼灸治療院を開院した。それが大繁盛で、1カ月先の予約も取れないほどだった。あまりに忙しいので、治療費を上げればさすがに来なくなると思ったら、逆にもっと患者が増えた。20代前半に始めて、人に喜ばれるのはうれしいが何かを作る仕事がしたいと、20代後半で閉院。
全く違う世界に入りたいと、商業地に土地を買い、焼き鳥屋やレストランを7~8年続けた。サンドイッチとケーキを合体したような新しいスイーツを開発してメディアに取り上げられるほどヒットしたこともある。それも飽きて、今度は靴屋を開業。自分でも新商品を企画、開発した。そのノウハウが傘作りにも活かされたのかもしれない。
「いろいろとやり、それなりに成功もし、靴店も2店舗になるほど好調でしたが、何か物足りない。もっともの作りをしたいと思って、ふと蘇ってきたのが傘だったのです。僕がやりたかったのは傘だったんだと初めてそのとき、気づいたのです」
そのとき1986年、林は40歳になっていた。傘を売るだけならまだしも自分で作りたいと林は決心した。そこで、茨城県古河市に小さな工房を建て、傘の職人を集めて生産を始めた。ビジネスを始めるだけの資金は手元にあった。
当初は、既存メーカーから発注されたブランド傘をOEMで作っていたが、ほどなく自社製品も並行して作り始めた。高品質で低価格の傘を作って、お客に喜んでもらいたい。それが林の経営方針だった。「良品薄利」と呼んでいる。
最初のヒット商品は通常8本骨の洋傘を16本骨にしたもの。しっかりとした作りで、5000円以上の定価をつけてもおかしくなかったが、3900円で売り出した。量産体制が間に合わず、1991年には中国、インドネシア、台湾と海外工場を増やしていった。現在では8カ所に工場がある。その結果としてコストダウンにつながった。