中途組も要職歴任、初の「内部昇格」に

1951年5月、北海道芦別市に生まれる。両親と兄、姉の5人家族で、父は炭鉱で埋蔵量などを調べる技術者。小学3年のときに父の炭鉱が閉山となり、別の企業へ転じて札幌市へ移り、地元の小中学校から道立札幌北高へ進む。東北が好きで、歴史のある町へいきたかったので、大学は青森県の弘前大学の経済学科を選ぶ。

就職では、専攻が経済史で国立銀行制度を勉強したので、東京と札幌の金融関係などを受けた。そんななかで「やっぱり、北海道へ帰り、北海道経済のために働きたい」との思いが高まり、北拓を選ぶ。75年4月に入行、札幌市の琴似支店に配属された。新入行員はお札の数え方から訓練され、2年目は窓口業務、3年目は融資担当で、最後は渉外担当で外回りの営業をした。次の東京・馬喰町支店でも、同様の仕事を重ねた。

入行8年目に希望していた本店の業務企画部へいき、新商品や新サービスを6年近く担当する。まだ規制金利の時代で、新商品といっても、画期的なものはつくれない。でも、その範囲内で女性向けの積立商品をつくることにして、契約したら提携先の旅行社や美容院で割引になるように走り回って売り出した。だが、なぜか、全く売れずに終わる。

本店融資部、仙台支店、都市銀行の任意団体である都銀懇の事務局、人事部と動いた後、冒頭の営業企画部で経営破綻に遭遇する。だが、多様な経験を積ませてもらったから、「シュウ鱗潜翼」の時期が訪れても、自然にうけいれた。北洋へ移って40代を終えたが、そこでまた、札幌銀行との合併を挟んで、中枢の職を歴任した。

2012年4月に頭取に就任、持ち株会社の札幌北洋ホールディングスの社長も兼務した。北洋が相互銀行だった時代以来、日銀OBが41年間務めてきたトップの座が「中途入社組」に渡った。内定会見で、北洋、北拓、札幌の3つの銀行出身者がいる点を聞かれて「行内融和は大きな課題ではない。出身を気にする風土はない」と言い切った。時の流れに身を委ねた時期から15年、頭にはそんな些細なことは全くなく、視線は先を見据えていた。

半年後、親会社の北洋HDを合併した。翌年には、注入されていた公的資金1000億円のうち300億円分を買い戻し、2014年には残る700億円分も完済する。頭取になるときには何も決まっていなかったが、指揮系統の一本化と経営の自由度の回復は「北海道経済のために働きたい」の原点に立つには不可欠だ。

北海道の少子高齢化は、全国でも速い。人口減に加えて、企業の数も10年間に8000社も減った。その対応には、鱗をおさめ、翼をひそめる時間はない。

北洋銀行頭取 石井純二(いしい・じゅんじ)
1951年、北海道生まれ。75年弘前大学人文学部経済学科卒業、北海道拓殖銀行入行。同行の破綻により、事業譲渡された北洋銀行に移る。業務推進部管理役、法人推進部長を経て、04年札幌北洋ホールディングス取締役兼北洋銀行取締役大通支店長、06年北洋銀行常務、10年副頭取。12年より現職。
(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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