妻が娘に見せておきたかった姿

妻がパートに出るかどうかを考えたとき、背中を押したのは娘の存在でした。娘が物心ついたときから闘病しているため、結果的に妻は疲れるとすぐにベッドで横になる姿を娘に見せ続けていたのです。怠け者のような印象を娘に残してしまうことに不本意だった妻は、娘に働いているところを見せたいと思ったのです。

パート初日の夕方、妻の働く手芸店に娘を連れていくと、娘は妻の元へ駆け寄り、無邪気によろこんでいました。自分の母親が働いているのが、何だか誇らしく思えたようでした。妻も、この点においては「パートを始めてよかった」といっています。

ただ、妻が娘に働く姿を見せるのは、これで十分だと思いました。遠くから妻の様子を窺っていた私には、心なしか緊張しているように見えるものの、妙に作業用エプロンが様になっている妻が、かえって痛々しく思えたからです。

パートへは、妻はバスに乗って通っています。自宅からバス停まで歩いて5、6分ほどなのですが、できるだけ私はバス停まで妻を見送ることにしています。

これまで仕事や家事で忙しくて病院へ向かう妻を、自宅の最寄り駅までしか見送れないときは、すまない気持ちになるのですが、パートへ行くためのバス停までの見送りは、すまないだけでなく、まるで妻の命を削ることに加担しているような気持ちになります。

朝遅い時間に、パートへと向かう妻をバス停まで見送る間抜けな夫――。

自宅に戻り、家事や仕事が待っているとしても、そんなことはすれ違う人たちにはわかりません。下手をすれば、私がヒモのように見える人もいるかもしれません。このようなことを思うのも、もちろん私の稼ぎに問題があるからです。

ただ、バス停まで送ることで妻の気持ちが少しでもラクになれば、と思って続けているのです。自己満足的な行いにすぎませんが、早くこの状況を何とかしなければならない、という気持ちを強くするためにも続けているのです。

もしパートに出たがために妻の寿命が縮まったら、私はバス停を見るたびに後悔するはずです。このようなことがあってはならない、と自分にいい聞かすためにも、私はバス停までの見送りを続けているのです。