株式会社化する大学に教育も研究もない

この四半世紀の国公立大学の制度改革の意味は一言で言えば「大学の株式会社化」でした。学長がCEO、政府と財界が「株主」、受験生と保護者が「市場」です。産学協同で研究資金をかき集め、グローバル経済に最適化した即戦力を輩出して、市場に好感されれば志願者が確保できる。そういう営利企業の発想をそのまま大学に適用した。

その過程で教授会は人事・予算だけでなく教学や入試・卒業判定についての決定権まで奪われてほぼ空洞化しました。学長からのトップダウンで全部決まり、「市場」が求めない研究教育には存在理由がない。巨額の費用のかかる研究を続けたければ外部資金をとってくるしかない。そういうロジックが罷(まか)り通っている。地方の国立大学では年間研究費が15万円という研究室もある。これは外部資金をとってこられない研究者は定年まで研究室に寝ていろというのと同じことです。

その結果、当然予測されたことですが、日本の学術研究レベルは急激に劣化しました。学術論文数は研究レベルの指標の一つですが、2000年頃には米国に次いで世界第2位だった日本の論文数は独立行政法人化が始まってから急減し、中国、ドイツ、英国に抜かれ、凋落(ちょうらく)の一途をたどっています。研究時間を制度改革のための会議と書類書きに費やしているのですからアウトカムが減るのは当たり前のことです。

「株式会社化」は教育機関だけにとどまりません。地方自治体も医療機関も、あらゆる社会組織を効率と採算に基づいて再編し、「グローバル資本主義」に最適化するというのが現在の政官財メディアの採択している国家戦略です。

しかし、行政や医療や教育はもともと営利目的のための制度ではありません。共同体を支える基盤として歴史的に形成されてきたものです。教育の第一の目的は「次世代を担う成熟した市民の育成」です。まっとうな公共的感覚を持った市民が一定数いないと共同体は保もちません。当たり前のことです。