でも、作者・島尾敏雄さんの実話である『死の棘』のすごいところは、島尾さんがひたすら謝り、妻であるミホさんの手を絶対に離さない。どちらも傷ついているけれども、その場をやり過ごすのではなくて、最後まで向かい合うところですね。
それはなぜかというと、この夫婦が強い愛情と信頼関係で結ばれているからです。特攻隊の隊長だった島尾さんが赴任した奄美で、村の長の娘であるミホさんをみそめて結婚する。ミホさんとしては、絶対的な信頼を置いていた夫が裏切ったという事実に、世界が砕け散るくらいのショックを受けた。愛が裏切られることによって愛の深さを表現した小説としては、おそらく世界文学史上随一でしょう。
ぼくはこの小説を20代の頃に読みましたけど、笑ってしまうと同時にすごい小説だなと衝撃を受けました。当時、女の子ともめて朝まで話し込んだりすると、「ああ、『死の棘』の世界だ。でもぼくは島尾敏雄にはなれないな」と、つくづく思ったものでした(笑)。これを読むと、人間、耐えることがいかに大事であるかがよーくわかる。ぜひ夫婦2人で読んでいただきたい。
これに対して川上弘美の『センセイの鞄』は一転、癒やし系の恋愛小説。全国の老人に勇気をもたらす小説ともいえます(笑)。高校の恩師だったセンセイ(70代)と、ツキコさん(37歳)が、ゆっくりゆっくり愛を育んでいきます。2人で何をするかといえば、酒を飲んで話をするくらい。どちらかが積極的にアプローチするわけでもない。つい、「もっとはっきりせんかい!」と、いいたくもなるけど、ずうっとほろ酔い状態のように続くスローラブがいいんですね。究極に穏やかで、誰も傷つかない。
「ああ、こういう老人にもなれるんだな」と思えます。老人が恋をするというと、谷崎潤一郎や渡辺淳一の作品に出てくるような、ものすごく好色な人物を想像するけれど、このセンセイはすっかり油分が抜けている。2人の関係に嫌みがなく、とても羨ましい。