振り返ると、大震災が発生した3月11日、菅直人首相は絶体絶命のピンチだったが、一転して政治休戦となり、命拾いした。だが、以後も次々と窮地に立たされた。

翌12日の午後、首相官邸で与野党各党との党首会談が開かれた。出席したみんなの党の渡辺喜美代表が振り返る。

「原発事故について、原子力安全・保安院の記者会見で、当時の審議官が『炉心溶融の可能性がある』と言っていたそうだが、私は『この発表はメルトダウンのことでは』と菅首相に問い質した。首相は『これはメルトダウンとは言わない。私は今朝、福島へ行ってきたが、原子炉は大丈夫』と、滔々と述べた。その真っ最中ですよ、福島第一原発で水素爆発が起きたのは」

大震災発生から8日が過ぎた3月19日、菅は首相官邸に鳩山由紀夫、前原誠司(前外相)、小沢一郎の3人の党代表経験者を呼んで会談した。倒閣の動きを見せていた小沢が大震災後、初めて菅と顔を合わせた。「小沢の知恵袋」の平野貞夫(元参議院議員)が舞台裏を明かす。

「震災の直後、小沢さんは困り切っていた。私は無断で小沢起用案を菅さんの側に提案した。笹森清元連合会長から『何か考えてくれ』と言われたので、『挙国体制のためにまず挙党態勢を。代表経験者を呼んで協力を要請し、彼らを引き込んだうえで野党に相談する。政権とは別に、国会決議で各党党首や各界代表を入れたスーパーパワーの組織をつくり、政権はその指示を実行する』という趣旨のメモを渡した。菅さんは18日に笹森さんと話をして、19日に3人を呼んだ」

菅は3人と会談を持った。だが、形ばかりの協力要請を行っただけで、小沢らを起用する案は示さなかった。

その直後に自民党の谷垣禎一総裁に電話で菅内閣への入閣を打診した。民主・自民の大連立構想だったが、谷垣は「あまりにも唐突」と言って拒否した。菅は自身の政権維持を考えて、挙党態勢でなく、大連立の道を模索したが、野党側の反菅姿勢は強く、成功しなかった。

一方、与党側では国民新党代表の亀井静香(前金融担当相)が動いた。13日に菅に申し入れを行う。オールジャパンで対応するために、与野党の協力による復興実施本部をつくり、そこに権限をある程度渡してやらせるのがいいと提案した。菅は「それはいい案」と答えたが、その場では亀井構想に乗らなかった。

1ヵ月が過ぎ、4月12日に菅が「会いたい」と電話してきた。亀井が語る。

「私は『あなたが肚を決めていないなら会っても意味がない』と言った。翌日、『どうしても』と電話で言うので、出かけていくと、菅首相は『1ヵ月前のあの案を』と持ちかけてきた。私は『遅すぎた感があるが』と言いながら復興実施本部づくりを始めた。だが、時間が経っていたから、党利党略的なものが起こった。頓挫したのは自民党のアホさ加減です」