玄白は小浜藩の藩医の息子として江戸に生まれた

青年期の玄白は徳川幕府の医官(奥医師)西玄哲に医学を学び、宝暦3年(1753)には小浜藩主・酒井忠用に五人扶持で召し抱えられることになります。明和4年(1767)には藩主の侍医にまで出世しますが、それまでに玄白は外科の領域に大いなる関心を示していました。1754年、山脇東洋が京都にて人体解剖に成功したことに発奮したとされます。

さて、玄白と源内がいつどこで出会ったのか、明確なことは分かっていません。宝暦6年(1756)、讃岐国から江戸に出た源内はそれ以降、頻繁に物産会(諸国の薬種や産物を展示した博覧会)を主催することになるのですが、物産会で2人は出会ったのではないかと推測されています。

源内と玄白は気が合い、オランダからの舶来品を一緒に見物

交流を深めた2人は、明和2年(1765)、本石町(現在の日本橋室町)の薬種屋、旅宿・長崎屋を訪れました(蘭学者・中川淳庵も同行していました)。そこに居たのはオランダ語通詞(通訳)吉雄幸左衛門です。幸左衛門はオランダ商館長の江戸参府に同行し、長崎屋に止宿していたのでした。その席で幸左衛門が披露したのはオランダ製のタルモメイト(温度計)なる「奇器」であり、幸左衛門はこの奇器を考え出すのにオランダ人でも何十年もかかったと語ります。