注目された皇族それぞれの意見表明
そして、皇位継承順位については、男女を問わず第1子を優先とする「長子優先」の制度が適当であると提言された。愛子内親王は、皇太子夫妻の長子である。
こうした問題に対して皇族が発言をすることは差し控えるべきだとされてきた。しかし、現在の上皇の従兄弟にあたる三笠宮寛仁親王は、女系天皇に反対する考えを表明し、男系継承の維持を主張した。寛仁親王はかつて社会活動に専念するために皇籍を離脱したいと意思表明したことがあり、大胆な発言をすることで知られていた。
他方、有識者会議の報告書以前のことになるが、高松宮喜久子妃は愛子内親王の誕生後、雑誌『婦人公論』(2002年1月22日号)への寄稿で「女性の皇族が第百二十七代の天皇さまとして御即位遊ばす場合のあり得ること、それを考えておくのは、長い日本の歴史に鑑みて決して不自然なことではないと存じます」と述べていた。
皇室のイメージを変えた女性皇族の存在感
皇族は、こうした問題に対してセンシティブにならざるを得ないわけだが、国民は違う。この時期の世論調査では、女性天皇を容認する意見が高い支持を得ており、愛子内親王の誕生はそれに拍車をかけた。
おそらく、このことについて、「容認」ということばを使うのは、事態を正しくとらえたことにはならないはずだ。
むしろ国民は、愛子天皇が誕生することを強く願った。男性よりも女性のほうが天皇にふさわしい。そのように考えた国民も少なくなかったことだろう。
そこには、戦後における女性皇族の活躍ということが大きく影響していた。戦前には、皇后をはじめ、女性皇族が国民の前に姿を現す機会は限られていた。
戦後、昭和天皇は全国を巡幸したが、ほとんどは単独でのものだった。香淳皇后が同伴したのは1947年の栃木県行幸と54年の北海道行幸のたった2回だけだった。昭和天皇が、すべての都道府県に行幸したのとは対照的である。
それが、美智子妃が誕生したことで一変する。皇太子の時代も、天皇の時代も、つねに美智子妃が同伴していた。その伝統は、雅子妃にも受け継がれた。皇室のイメージをアップさせる上で、女性皇族の果たした役割は限りなく大きい。
そのことが、愛子天皇を待望する国民の声に結びついた。愛子内親王は、美智子上皇后の孫であり、雅子皇后の娘である。国民は、愛子内親王のなかに、民間から嫁いだ二人の女性の姿を見ている。