インターネットは絆になるか?
今日、犯罪の変遷において語るべき最大の特徴は、「ドラマとしての犯罪」から「病理としての犯罪」へと性質が変化したことである。犯罪は物語性を失い、物語を読み解く「犯罪評論家」の出番はなくなった。代わって、個人の病理を診断する精神病理学者が解説役を務めている。
変化のきっかけは、1980年代から顕在化した「家族の崩壊」である。伝統的な犯罪は、家族などの濃密な関係性ゆえに引き起こされたものが大半だった。しかし80年代以降は、家族のしばりがなく、関係性において未成熟な人が罪を犯すようになっている。したがって人間関係から物語性を見出すよりも、ある条件下の個人が病理として犯罪に至ったのだ、と論じるほうが理解されやすくなったのである。
家族が崩壊したとすれば、人はどこへ「つながる」のか。一時は「イエスの方舟」のような新宗教が家族を代替すると思われたが、それもオウム事件で破綻した。次に現れたのがインターネットだが、この関係性は希薄かつとらえどころがなく、いまのところ人々をつなぐ絆とはなりえていない。
かつて日本人は定住を基礎とした農耕社会の中で、濃密な対人関係という強い線で結ばれていた。個人の病理は早い段階で社会が吸収し、犯罪の芽を摘むこともできた。しかし関係性が失われたいま、個人は点としてしか掌握されることがない。それゆえ病理が犯罪行為として突出する。2008年の「秋葉原通り魔事件」の犯人のように、サイバースペースからいきなりナイフを持って現実社会に躍り出てしまう。もし彼に濃密な人間関係の線が1本でもあれば、事件は起きなかったかもしれないし、起きても軽微なものにとどまっただろう。
この事件が象徴するように、最近は他人と皮膚感覚を共有できない若者が増えている。そのため凶器で刺すときに実感がなく、痛みが自分に返ってこない。実は私たちの演劇のワークショップでも、いちばんの悩みはこうした感覚のズレである。