40~60歳の女性が多かった
江戸の夜鷹について述べるとき、必ずと言ってよいほど引用されるのが、国学者・狂歌師の石川雅望の著『都の手ぶり』(文化6年)である。わかりやすく現代語訳すると、次の通りである。
若い女はまれで、たいていは40から5、60歳の老婆が多い。老いを隠すため、ひたいに墨を塗って髪の抜けたのをごまかしたり、白髪に黒い油を塗ってごまかしたりしているが、それでも、ところどころ白髪が見えて、見苦しく、きたない。
原文では、「みぐるしうきたなげなり」と表現している。
人生50年と言われた時代にあって、40~60歳の女は老婆と評されてもおかしくない。
吉原から岡場所や宿場に流れ、さらに岡場所や宿場でも通用しなくなった女が、食べていくため、やむなく路上に立つ例が多かった。
そのため、夜鷹は年齢が高く、また性病などの病気持ちが普通だった。
どんな男が買っていたのか
▼図版3で、石川雅望の「みぐるしうきたなげなり」がわかろう。
こんな夜鷹を買う男もいたわけだが、多くは武家屋敷の中間や、商家の下男などの奉公人、日雇い人足だった。
彼らとて吉原や岡場所で遊びたかったであろうが、その薄給では夜鷹がせいぜいだったし、梅毒・淋病などの性病に対する無知もあった。
当時、避妊・性病予防具のコンドームはなかったから、セックスワーカーは客の男と、いわゆる「ナマ」で性交渉をしていた。客の男から性病をうつされたセックスワーカーは、今度はうつす側になる。
夜鷹はセックスワーカーとしての年月が長いだけに、性病の罹患率は高かった。
江戸の夜鷹の総数を約4000人と述べた『当世武野俗談』から、およそ100年後の、幕末期の状況が、『わすれのこり』(安政元年)に――
今其風俗極めて鄙し、浪銭六孔を以て、雲雨巫山の情けを売る、本所吉田町、また鮫が橋より出て、両国、柳原、呉服橋外、其外所々に出るうちにも、護持院が原とりわけ多し。
――とあり、夜鷹の風俗は相変わらずいやしかった。
浪銭六孔は、四文銭6枚のことなので、24文。
幕末期になっても、夜鷹の揚代は24文だった。100年たっても、値上げはなかったと言えよう。