父親の死
胡麻さんは係長だった製薬会社を退職し、その後、離婚。求職支援を利用して医療事務の資格を取得し、2016年には週に3回父親をデイサービスに通わせ、46歳の時に病院に就職。父親は最初、デイサービスを嫌がったが、2週間後には「楽しい」と言って進んで通うようになっていた。
胡麻さんは両親の食事の世話や父親の着替えなどの介助を行うほか、大学生と高校生の子どもたちの食事の世話をしながら医療事務の仕事に励む。
「医療事務は、会計年度職員だったので時給が低く、一日7時間労働で月14万円程度の収入でした。当時は貯金もわずかしかなく、元夫からの養育費も子1人につき月3万円だったため生活が苦しく、収入を得たいために、夜は友人の経営する飲食店で月に30〜40時間ほど働かせてもらっていました。コロナ禍は飲食店の仕事が減ったので、一人で作業できるコインランドリーの清掃やベーカリーの仕込み作業など、短時間労働の掛け持ちをしました」
朝は両親と娘たちの朝食や昼食・弁当を作り、父親の着替え介助、デイサービスの準備をしてから8時に出勤。17時に帰宅後は、父親の洗濯物や両親と娘たちの夕食準備をして、洗濯や掃除。
金曜と土曜は夜に飲食店で働くため、朝・昼・夜の食事を準備してから出勤。日曜は、朝・昼の食事を準備してから飲食店に出勤した。
「離婚して実家に帰ったことで、仕事と介護と子育てに追われ、一気に『しっかりしなきゃ』という状況になり、必死に毎日を生きるうちに、気づけばうつ病だったことを忘れるほど普通に生活を送れるようになっていました。娘たちはアルバイトをし、できる時は家事をサポートしてくれましたが、私は元気になったとはいえ、疲労やストレスが溜まると気分が沈み、油断はできませんでした」
2017年7月には「再び自分が潰れてしまう前に」と、父親を「サービス付き高齢者住宅」へ入所させる。
「いつ休んでいたか定かでないほど働いていました。父がサ高住に入所しても、人数が1人減っただけ。ただ、パーキンソン病は、いきなり動作がOFFになり、突然転倒し動けなくなります。朝は起立性貧血。排便時の貧血。排便コントロールが困難……と難病と言われるだけあって、薬を服用していても自宅にいる時は目が離せませんでした。父の介助が必要なくなったことで、少し楽になりました」
父親が入所してからも、胡麻さんは週1回施設に通った。父親のパーキンソン病は徐々に悪化し、誤嚥性肺炎で入退院を繰り返す。
「父は常に『ありがとう』『苦労かけてすまん』と言ってくれました。大嫌いな父でしたが、哀れでした」
2022年10月。近場に新しく高次障害者・難病者用の介護施設ができたため、入所。この時父親は要介護5になっていた。
2022年12月半ばには、食事を飲み込むことができなくなり、経鼻経管栄養へ。父親は「管に繋がれてまで生きながらえたくない」と言っていたため、胡麻さんは葛藤したが、経鼻経管栄養と点滴をやめて約2カ月後、父親は83歳で亡くなった。53歳の胡麻さんは施設と職場を行き来し、最期を看取った。