天守の屋根には雑草、壁は崩落

日本の城の運命を決めたのは、明治6年(1873)1月に出された2つの太政官礼(太政官が交付した法令)だった。陣屋や要害などと呼ばれたものを加えると国内に300程度はあった城は、陸軍の軍用財産として残す存城と、普通財産として大蔵省に処分させる廃城とに分けられた。

このとき存城とされたのは40余りだけで、それもたんに軍用財産として使うというにすぎず、城を文化財とみなすという視点は皆無だった。だから、姫路城も存城となった翌年には、陸軍大阪鎮台歩兵第十連隊の駐屯地になり、三の丸に建ち並んでいた御殿群は、兵舎を建てるためにすべて取り壊されてしまった。大手門をはじめ複数の櫓や門も入札にかけられた。

保存しようという意識がわずかでも芽生えはじめたのは、維新から10年ほど経ってからだった。明治11年(1878)12月、陸軍省で軍施設の営繕などを担当していた中村重遠大佐が、名古屋城と姫路城の保存を求める上申書を山県有朋陸軍卿に提出。翌年、陸軍省と内務省、大蔵省のあいだで、この2城を永久保存する方針が決められた。

とはいえ、保存費用としてわずかな一時金が支給されたにすぎず、天守も櫓も門もほぼ放置された。しかし、江戸時代を通して大規模なもので5回、小規模なものは30回を超える修理を重ねて維持してきた姫路城である。放置されれば、空き家がたちまち荒廃するのと同様の結果になる。

明治中期に撮影された写真では、天守の屋根は瓦がずり落ちて雑草が繁茂し、壁は崩落。大天守と東小天守を結ぶ「イの渡櫓」の西側など、壁も屋根も崩れ落ちて、いまにも倒壊しそうに見える。

高木秀太郎著『近畿名所』
高木秀太郎著『近畿名所』、関西写真製版印刷、明36.6.、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/765660(参照 2025-02-06)

きっかけは豪雨だった

日露戦争終結後の明治41年(1908)になって、さすがに惨状を憂うる地元民も増えたようだ。白鷺城保存期成同盟会を結成され、政府や貴族院に請願したほか、姫路藩士の息子である陸軍次官、石本新六中将が尽力。ようやく明治43年(1910)から翌年にかけ、9億円の国費が投じられ、幕末以来50年ぶりの修理が行われることになった。

ただし、所詮は陸軍省の裁量による修理であり、対象外とされた西の丸では、櫓や多門の軒が崩れ、壁が破れるなど倒壊の危険性が生じた。大正8年(1919)に修理されたが応急的なものにすぎず、昭和6年(1931)に国宝に指定されたのちも、法隆寺などと違って修理の予算がつかなかった。

そうこうするうちに昭和9年(1934)6月、豪雨で西の丸の「ヲの櫓」から「タの渡櫓」にかけて、石垣ごと崩落する事故が発生。文部省が慌てて調査した結果、当該の櫓と石垣だけでなく、姫路城全体がきわめて深刻な状況にあるとわかった。

この期におよんで文部省もようやく重い腰を上げ、臨時の災害復旧修理事業として予算を組み、昭和10年2月から修理がはじまった。少しでも遅れていれば、多かれ少なかれ建造物群が崩壊しかねない危険にさらされた末の、ようやくの決断だった。