B29の焼夷弾が直撃していた
この修理は、すべての建造物をいちど解体して元に戻すという画期的なもので(解体修理)、終戦間近の一時期を除いて続けられ、最後に行われた大天守の解体修理が竣工したのは昭和39年(1964)だった。
その間、姫路城は別の危険にもさらされた。昭和20年(1945)6月22日と7月3日深夜、B29爆撃機が姫路市内全域に焼夷弾を落としたのである。だが、姫路城は奇跡的に無事だった。米軍が配慮した、という噂も立ったようだが、姫路空爆に参加した米軍操縦士はのちに、「城があるなど知らされておらず、レーダーに映った堀を沼か池だと思って引き返したのではないか」と証言したという。
それに、大天守最上階南側の床板上からは、窓を破って着弾した不発弾が見つかり、西の丸からも2つの焼夷弾が見つかった。旧三の丸にあった市立鷺城中学は3棟の校舎がすべて全焼している。姫路城が焼けずに残った理由は、幸運にあるとしか言いようがないのである。
大天守には別の問題もあった。江戸時代を通じて南東に傾き、昭和の大修理の際には東大柱が南に20センチ、東に26.5センチ、西大柱は同じく22センチと26.8センチ傾いていた。原因は天守台の石垣が積まれた地盤の不同沈下で、このため昭和の修理では、建造物の膨大な重量に耐えられるように、やむなくコンクリート製の基礎を入れている。
現代でも運べないほどの柱
ところで姫路城の大天守は、いま述べた東と西の2本の大柱によって支えられている。東大柱はモミの1本材なのに対し、西大柱は2本の木材を途中で継いでおり、上部がツガ材、下部がモミ材だった。ところが解体してみると、とくに西大柱は腐食が進んでおり、再利用が不可能なことがわかった。
そこで、西大柱はすべてヒノキ材に、東大柱も一部がヒノキ材と交換されたのだが、大変な巨木の柱だったので、最適なヒノキを探すのは困難をきわめた。昭和34年(1959)にようやく、岐阜県の現中津川市内の山林に最適と思われるヒノキが見つかったが、伐り出す途中に折れてしまった。その近くで見つかった別の材も、今度は森林鉄道で運搬する途中に長すぎて折れてしまったという。
仕方なく折れた材の根元の部分を、兵庫県内から伐り出したほかのヒノキ材に継ぎ合わせて使用した――。そんな苦労話が残されている。
旧材は現在、有料区域に入る手前の旧三の丸に展示されているが、現代においても運搬困難な木材が人力で運ばれ、加工され、組み上げられていたのである。