単なる駄作ではなく、「古き良き朝ドラ」
「おむすび」が単なる駄作なら、誰からも語られず、見捨てられていくだけだった。視聴率が低い位置で安定し、静かに放送を終えたに違いない。
それなのに、なぜ、私のこの原稿も含めて、私たちは、「おむすび」がつまらない理由を、ここまで語り続けるのか。
それは、「おむすび」が古き良き朝ドラだからである。ライターの田幸和歌子氏は「毎日が発見ネット」の記事で、「おむすび」の第9週について〈様々な人々の「支える」をテーマに、ある種朝ドラ王道ともいえる、ひとりよがりヒロインのありがた迷惑な親切が、ちょこちょこ突飛な場面と共に描かれる〉と分析している。
田幸氏は、『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版、2012年)の末尾で、こう語っている。
(『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』、295ページ)。
もちろん「虎に翼」の主人公・寅子も、こうした「美徳」に満ちていた。ただ、それよりもドラマには「正解」があった。「おむすび」の米田結は、「正解」よりも、こうした「善良さ」(のみ)を体現している。
そこで私たちは、「おむすび」を見捨てられないどころか、時に喜々として「つまらない理由」を「批評」し続けるのではないか。
「みんな一緒」が成り立たなくなった時代に
いや、それ以上に、「おむすび」には、いまのSNSと通じる要素がある。それは、偉大なるマンネリである。
YouTubeやTikTok、Instagramには「Vlog」(Video Blog)と呼ばれる、さまざまな人の日常を記録した(だけ)の動画があふれている。「ルーティン」=日常の習慣・決まりごとをベースに、日々の暮らしを動画に撮影し、コンパクトに編集している。
覗き見趣味をそそる部分もあるとはいえ、ほとんどの動画は、大きな変化がなく、驚くに値しない。キラキラした要素もあるものの、それでも、おおかたは、ありふれた生活にすぎない。
朝ドラとは、良くも悪くも、もともと、こうしたルーティンでしかなかったのではないか。毎日決まった時間に放送され、「みんな」が、惰性で見る。感動があるといっても、あくまでもいつもの流れのひとつであり、それ以上でもそれ以下でもない。
1983年に「おしん」が平均視聴率52%の空前絶後の記録を作ったのも、その内容が、戦争を挟んだヒロインの苦難の物語=王道だから、だけではない。朝ドラが生活に完全に定着していたからであり、「みんな」を信じていたからである。
この点で、「おむすび」は、きわめて困難なミッションに挑戦していると言えよう。
「みんな一緒」が成り立たなくなって久しい「令和」の時代に、「みんな」が崩れていった時代=「平成」を描こうとしているからである。「昭和」を象徴する朝ドラ=「おしん」は成り立たないはずなのに、あたかも、その偉大なるルーティンを真似しようとしているかのように、むずかしい道を歩んでいる。
この無謀な挑戦をこそ、私たちは「批評」したくなるのではないか。