「ギャル」が話題にならない

ハレーションは起きていない。起きていれば、まだ、もっと話題になっていただろう。本サイトをはじめとするネットメディアで、「『おむすび』がつまらない理由」は、さんざん語られる。さりとて、「おむすび」への批判が沸騰するわけでもない。

「ギャル」設定もまた、ほとんど語られない。脚本家の根本氏の目論見は、外れたと言わざるをえない。

しかし、外れた=ドラマも外れ、と決めつけるのは早合点ではないか。「おむすび」について語られながらも、話題にはなっていない。ここに、いまのドラマをはじめとするエンターテインメントの現在地があるからである。

この背景について、文芸評論家の三宅香帆氏は、雑誌『VOICE』の連載を「考察したい若者たち」と銘打ち、〈「批評」の時代から「考察」の時代へ〉との流れで語っている。

令和とは、物語を楽しむ行為すら「報われること」を目的にしてしまう。だからこそ、正解を当てる達成感が得られる、謎解きや考察ドラマが流行する」(『VOICE』2024年12月号、182ページ)

「批評」は、そのドラマの良し悪しの判断であり、趣味嗜好、なにより、審美眼が反映される。これに対して「考察」は、どこかにある(はずの)「正解」を見つける能力が問われる。

「批評」から「考察」へ。この流れが、「虎に翼」と「おむすび」に当てはまる。

「おむすび」には「正解」がない

「虎に翼」については本サイトでも、「考察」する記事がたくさん掲載されている。これに対して「おむすび」は「考察」されず、「面白くなる気がしない」理由のように、「批評」がなされる。

「おむすび」は「批評」されるばかりで「考察」されないから、話題にならない。三宅氏にならえば、このように言えよう。

裏を返せば、「虎に翼」は、「正解」で埋め尽くされたドラマだったのである。主人公の動機から振る舞い、現在につながる史実に至るまで、あらゆるところに「正解」が散りばめられていた。

「正解」=正しい、のではない。正しくなさ、というか、不謹慎さ、失礼さ、といった、あらゆる要素を含んでいるから「正解」だった。

これに対して「おむすび」には、「正解」がない。阪神・淡路大震災や、パラパラの流行といった史実には即しているものの、「考察」の余地がない。「女性の社会進出」をテーマにしているわけでもなく、阪神・淡路大震災を境にした復興物語でもない。

視聴者が、「おむすび」の謎を探り当てる余地がない。

かといって、ここまで「つまらない理由」だけが語られるほどの存在にはならないのではないか。

NHK大阪放送局舎
写真=iStock.com/Mirko Kuzmanovic
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