日本の皇位継承の歴史を振り返る

一方、島田氏は、中国では女帝が唐代の則天武后だけなのに対し、女帝が多いのが日本の伝統であるとし、男性の皇位継承者がいないときの中継ぎにしては多過ぎるし、同時代の男性の天皇と比べて、遜色ない働きをしているとされる。

こうして「女性・女系天皇」はいなくなってしまった…宗教学者が指摘「女帝時代を終わらせたこの一族の罪」

しかし、女性がつなぎで即位したことと、天皇として実力があったのは矛盾しない。古代の皇位継承は、3世紀の崇神天皇から、大化の改新や奈良時代の律令制の確立まで不文律があった。

天皇は30歳くらいになってから即位し、皇子が若年なら叔父や女性が継承し、いったん即位したら生前の退位はなかった。

生前退位なしのルールが破られたのは、大化の改新で皇極天皇が弟の孝徳天皇に譲位したときだ。唐で髙祖が退位して息子に太宗が即位したことに触発されたように見える。

「女帝はこりごり」となった道鏡事件

天皇という漢字も、即天武后の夫である高宗の使っていた称号を、当時日本で用いられていた「すめらぎ」の漢語訳として採用したものだ。テンノウと呼ぶようになったのは明治になってからだ。

30歳原則は、特殊事情があったらしい武烈天皇即位時以外は厳密に守られ、聖徳太子が即位できず、大化の改新のあと中大兄皇子が即位しなかったのも説明できる。だが、天武天皇のあと持統天皇との子の草壁皇子が30歳を目前に死去したので、持統が中継ぎとなり、草壁皇子の子の文武天皇を15歳で即位させてタブーが破られた。

その文武も若死にしたので、文武の母である元明天皇とその娘である元正天皇と女帝が続いたが、いずれも聖武天皇の成人を待つためだった。律令で、女帝の子も親王(内親王)とするのは、即位しないまま死んだ皇子の未亡人が即位したような場合を想定したもので、女帝がつなぎであったことの否定にならない。

聖武のあとは、娘の孝謙天皇が即位したが、混乱が続き、道鏡が天皇になる可能性も出た。このとき、万世一系が崩れる可能性があったのは島田先生の指摘の通りだが、称徳天皇(孝謙が重祚)が思い留まり、ルールは崩れなかったし、人々も女帝に懲りた。

称徳天皇像、孝謙天皇像
称徳天皇像、孝謙天皇像[写真=西大寺所蔵/『NHK歴史発見13』(角川書店)/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

江戸時代の2人の女帝は、退位を強行した後水尾天皇による譲位(明正天皇)とか、桃園天皇崩御のときに息子の後桃園天皇が幼少だったのでつなぎにした(後桜町天皇)だけである。