戦後犯罪史上まれにみる連続企業脅迫事件である「グリコ・森永事件」。その真犯人は誰だったのか。作家の大下英治氏が「戦後最大のフィクサー」と呼ばれる許 永中氏に取材した『許永中独占インタビュー「血と闇と私」』(宝島文庫)より、一部を紹介する――。

不審車両を取り逃がした県警トップは焼身自殺を遂げた

昭和59年と60年に阪神を舞台に発生した「グリコ・森永事件」は、犯人が「かい人21面相」と名乗ったことから「かい人21面相事件」とも呼ばれた。

昭和59年3月、江崎グリコ社長の江崎勝久を誘拐して身代金を要求。さらに、江崎グリコに対して脅迫や放火を起こすなどして騒然とさせた事件だ。

昭和59年11月、滋賀県警刑事部捜査一課の刑事が大津サービスエリアで脅迫状の犯人と目される「キツネ目の男」を発見。職務質問は禁じられていたため、そのまま撤収している。

キツネ目の男
キツネ目の男(画像=警視庁/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

その後、事件捜査を知らない滋賀県警の所轄署外勤課員が不審な白いライトバンを発見。パトカーと激しいカーチェイスとなったが、逃げられた。

翌60年、不審車両を取り逃がした滋賀県警本部長・山本昌二は自身の退職の日に本部長公舎の庭で焼身自殺を遂げている。

山本はノンキャリアからの叩き上げだったが、どういうわけかグリコ・森永事件で捜査を指揮した大阪府警本部長の四方修とウマが合った。入省年次では山本が後輩。だが、無二の親友といっても差し支えない間柄だった。

〈山本は死んでいる。手打ちなんかしてたまるか〉

司法の腹はとうに決まっている。グリコ・森永事件の実行犯がまだ娑婆にいるのなら、身柄を取るだけである。他に選択肢はない。

私の職場にやってきた警察が言ったこと

捜査線上には数多くの名前が浮かんでは消えた。「北朝鮮の工作員」、「大阪ニセ夜間金庫事件の犯人」、総会屋、株価操作を狙った仕手グループ、元あるいは現職警察官、「元左翼活動家」といったさまざまな犯人像が取りざたされてきた。

「在日」、「暴力団」、「右翼」。どれをつついても、私の名前が出てくるようになっていた。大阪府警が関連捜査であれこれ聞いてまわったところ、10人中8人から「許永中」という名前が出てきたらしい。

私の仕事場に、ついに大阪府警の刑事が乗り込んできた。ガサ入れである。捜査令状など持ってはいない。

大阪府警は、私の身元をくまなく調べ上げた。

「何やってるか、ようわからん。人間だけはようおるな。けど、まともな者はおらん」

刑事にはそう言われた。私の周囲にいた人間は地域の先輩、友人や後輩ばかり。すでに触れたように、小さい賭博やノミ屋をやらせていたが、これがまた好評を博していた。客がうなぎ登りに増えていく。私が28、29歳になる頃まではそうした不法収入が結構な額になっていた。