「乗り降りしやすいように」考えられたものだった

「クラウンが開発された時代、前席に運転する男の人と助手が乗る。女性は後ろの席に乗るのが普通でした。そして、当時の女性のファッションはつばの広い帽子とフレアースカートだったわけです。帽子をかぶったまま乗ったので、乗り降りしやすいように観音開きが生まれた。

今、高齢者が多くなって乗り降りしやすい車が求められています。すぐに観音開きを導入することにはなりませんけれど、昔のトヨタの技術者は時代に合わせて、新しい技術に挑戦していたことに感動します」

復元前の初代クラウン。中村健也が開発した観音開きのドアは当時画期的だった
画像提供=トヨタ自動車
復元前の初代クラウン。中村健也が開発した観音開きのドアは当時画期的だった

川岡が言ったように、自動車の黎明期、自動車を専門にする技術者が少数しかいなかった。まして、トヨタは東京から離れた拳母町(現 豊田市)のベンチャー企業だ。当時のトヨタの開発者は先端の技術情報を手に入れるにも限度があっただろう。それでも彼らは情報を集め、洋書を読み、世界最先端とも言える乗用車、クラウンを自力で開発した。知恵とチャレンジ精神は今のトヨタの人間よりも彼らの方が上だった。

レストアプロジェクトにいる人間たちはノスタルジーで昔の車を修復しているのではない。先人の知恵とチャレンジ精神を学んでいる。

EVも大事だけど、何より「好きだから」

「お客さまにも学ぶところがたくさんあります。この初代クラウンは7~8台持っている方から譲っていただいたのですが、その方は通勤に使っているんです。理由を聞いたら『好きだから』。車って、EVとか自動運転とかいろいろ言われているけれど、好きだからその車に乗っている方は少なくないわけです。僕自身がそうですから。周りから見れば変わっているかもしれないけれど、好きな点を言い出したら、きりがない。まず、デザインです。

昔の車はソリッドカラーが多い。この初代クラウンもそうですけれど、メタリックが入っていない。ピカピカしてない色だから好きなんです。そして、ふくよかなボディライン。ソリッドカラーの水色とこのボディラインが合うんですよ、これがまたいい」

川岡は話し出したら止まらない。車が大好きだから。むろん仕事も楽しい。

川岡たちのチームはレストアに際して、次のような作業をした。まず、分解して構造を知り、それぞれ新しい部品を作る。ボディのような生かすべきところはさびを落とし、凹凸をなくし、新たに塗装する。ガラス、タイヤなどは往時のものと同じようなものを探して取り付ける。

たとえば、初代クラウンのウインカーは電気のライトではない。アポロ式ウインカーと呼ばれる腕木が飛び出るタイプの方向指示器(ウインカー)などのパーツは、各部門の専門技術者たちが知恵を出し合い、競い合って製作した。車のサイドマークは3Dプリンターで型を作り、当時と同じ亜鉛合金のアンチモンで再生した。