いちばん苦しいときに会った人
大前さんと初めてお会いし、「プレジデント」誌上の対談を収録したのは、1994年の10月。このときの私は、相当苦しいときでした。それまで研究用のネットワークとして日本のインターネットを動かしていた私は、仲間たちと1992年に日本企業初のISP(インターネット・サービス・プロバイダ)であるIIJ(インターネットイニシアティブ)を設立して、ビジネスを展開しなければいけない時期を迎えていました。それがなかなかうまくいかない。当時の通信分野のレギュレーション(規制)の問題だけでなく、何よりもまず、さっぱりビジネスがわからない。かなり苦労している時期でした。
インターネットが日本中で広く認識されたのは、大前さんとの対談の翌年――1995年です。この年の1月に阪神淡路大震災があり、インターネットは大きな役割を果たしました。11月には インターネットを組み込んだWindows95 が発売され、そこにはウエブブラウザ「Internet Explorer」があり、インターネットがふつうの人の目に触れるようになった。この年の流行語大賞のトップテンにも入りました。私が書いた『インターネット』(岩波新書)という本が出たのも、95年の11月。その年のうちに10万部、最終的には50万部になりました。
ということは、その前の年——1994年はめちゃくちゃに苦しい時期だったということです。大前さんと対談したそのときは、インターネットの大きな転換期でした。山の麓に立って、頂を見上げていた時期でした。私にとっては、研究者、技術者として生きてきて「新しい展開をしないといけない」という使命感が生まれたときです。このときは、いろいろな分野の指導者の方とお会いすることがとても大事な時期でした。そのタイミングで大前さんとお会いするということに、大変興味があったことを覚えています。
お会いするまでの私の大前さんへの予備知識はあまり多くありませんでした。わたしは大前さんの「経営コンサルタント」という肩書を意識していたし、大前さんのバックグラウンドはマッキンゼーしか知らなかった。MIT(マサチューセッツ工科大学)で学ばれたこと、原子炉のエンジニアであったことを知るのは、お会いしたあとのことです。
大前さんにお会いする前も、ビジネスの世界の方とのコミュニケーションのチャンネルはあったのですが、大前さんはスペックがちょっと違っていた。技術畑のビジネスの人は、私の周りにいっぱいいたのですが、経営という視点からインターネットにご本人――大前さん自身が大変強い興味を持たれていたというケースはなかったと記憶しています。
こちらからすると、インターネットをわかってくれているという人がただでさえ少ない中で、経営のジャンルの人は珍しかった。私はこの時期に5年くらいかけて、インターネットに強い興味を持ってくれる人とお会いするようになります。大前さんや、坂本龍一さんや建築家の隈研吾さんなど、いろんな方と分野を超えてお会いしました。私の興味も広がっていくし、向こうも非常にインターネットに興味を持っているというときだったので、お互いぴったりだったと思います。