※本稿は、風来堂『カラーでよみがえる軍艦島』(イースト新書Q)の一部を再編集したものです。
元島民インタビューから見えてくる「在りし日の軍艦島」の姿
炭鉱が本格的に稼働し、1974(昭和49)年の閉山へと至るまで80余年、日本のエネルギー産業の一翼を担い続けた「軍艦島」こと端島。その間、島の住民だった幾千、幾万の人々が島に暮らしていた。職住接近で、日本一の人口密度を誇る離島。島自体がひとつの“生きた町”だった頃のリアルな日常は、どんな風だったのだろう。生まれも育ちも端島で、生粋の“軍艦島っ子”だったお二人に、当時の暮らしを具体的に振り返ってもらった。
1945(昭和20)年に生まれ、1964(昭和39)年までの約18年間を端島で暮らした石川東さん。高校卒業後は、1年半長崎に就職し、端島を所管する旧高島町役場に就職するため、ひとり高島に居を移した。高島は、端島から北方約3kmに位置する、端島とともに炭鉱で栄えた島だ。
「端島を『離れた』という感覚はなかったね。すぐに帰れたから」と話す石川さん。端島が閉山する1974(昭和49)年までは、仕事や、島に残る両親に会うため、月に何度か帰っていたという。人生の多くの時間を端島と関わりながら過ごしてきた。
最初に完成した30号棟の「6畳と4畳半」に家族8人で暮らす
日本初の鉄筋コンクリート造高層アパート・30号棟で幼少期を過ごし、鉱員用の社宅20号棟、19号棟と引越しを重ね、10歳になる1955(昭和30)年に、新築だった48号棟に入居した。
「6畳と4畳半の二間に、両親と祖父、兄弟5人の家族8人で暮らしていました。48号棟に入居した当時はたいした家電もなくて、高校までは毎朝、かまどで薪を燃やしてご飯を炊いていました」
当時、端島といえば日本最先端の環境が整った先進的な生活だった、というイメージで語られることが多いが、家庭によっても多少異なっていたのだろうか。「父親が二番方(夜勤)の時は、帰りが早朝になるので、母は毎朝かまどでご飯を炊きながら、寝ずに父の帰りを待っていました」と石川さん。徐々に電化が進み、昭和30年代後半には家電も揃っていたという。