第二次世界大戦の末期、旧日本軍は航空機などで敵戦艦に体当たりする「特別攻撃隊」(特攻隊)を編成した。10~20代の多くの若い兵士たちが自らの命を絶った。彼らはどんな思いで出撃したのか。宮本雅史さんの著書『「特攻」の聲 隊員と遺族の八十年』(KADOKAWA)から紹介する――。
海底に沈んだ零式水上偵察機
写真=iStock.com/Global_Pics
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ラッパで起きて、ラッパで寝る生活

私が、和歌山県・日高町に花道柳太郎を訪ねたのは平成27(2015)年6月のことだ。花道は当時90歳で、妻のトシ江(当時84歳)と共に応対してくれた。

花道は、7人兄弟の長男。内原尋常高等小学校を卒業すると、昭和15(1940)年3月25日、岐阜県・各務原の陸軍航空廠技能者養成所(陸軍機の修理や部品の補給に当たる組織)に入所、軍隊生活が始まった。ここで、昼間は学科を、午後は訓練と実習を行い、昭和18年3月2日に卒業。「この3年間はラッパで起きて、ラッパで寝る生活だった」という。

昭和18年4月1日、各務原の陸軍航空隊の補給科に勤務、整備を担当した。陸軍はこの頃、新たに陸軍特別幹部候補生(通称・特幹)制度を制定しており、花道は受験に合格。翌19年4月、一期生として滋賀県の第八航空教育隊に入隊した。

「普通、兵隊で入ると星1つから始まるが、特幹は星2つから始まる。それに半年経つと1階級ずつ上がっていく。軍曹までいくと、士官を受ける資格を貰えた」

昭和19年暮れ、栃木県・宇都宮陸軍飛行学校で、航法を学んだ後、昭和20年2月、航法士として、茨城県の西筑波飛行場(現・つくば市)で陸軍飛行第62戦隊に配属される。62戦隊は、連合軍施設や艦艇を破壊するため、大量の弾薬を投下できる重爆撃機の戦隊で、中国戦線や東南アジアで作戦を展開していたが、西筑波飛行場に集結し特攻訓練を行っていた。

陸軍の四式重爆撃機「飛龍」
陸軍の四式重爆撃機「飛龍」(画像=SDASM Archives/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「戦隊はびっくりするほど家族的だった。若い兵隊も、特別扱いしないんですよ。普通の家族のように扱ってくれるんです。いじめは全然なかった」

死と隣り合わせの訓練

花道は短期養成の猛訓練を受けた。

「離着陸だけでなく、海上をすれすれに飛んだり、様々な訓練を受けた。三角形に回ったり、四角形に回ったりして飛行場に戻ってくる訓練をした。ただ、海の上に行くと、よう戻って来んのですよ。(操縦の)誤差がものすごく多かった。誤差を少なくする訓練をした」

「海面すれすれに飛んで敵艦に近づき、爆弾を投下して船体に命中させる跳飛弾攻撃の訓練を集中的にやった。大分湾で3,000メートル上空から急降下し、敵艦に見立てた練習空母の手前でコンクリートの模擬弾を落とし、敵艦にぶつからないように上昇するのです。あるとき、2機が目の前で空中衝突して、墜落するのを見ました。それから、わしが下痢をしていたとき、わしの代わりに訓練をした見習士官が、高度を下げ過ぎて、前のプロペラで波の波頭を切り、反射的に操縦桿を引き上げたら後部が波に当たって、機体が二つに割れてしまい、亡くなった事故もあった。訓練をしていた大分湾は当時、風が強く波が高かったらしいんですが、わしが乗っていたら、わしが死んでいた」

すべてが特攻の訓練だった。