悪天候に阻まれた出撃

「朝食は豪華だった。軍隊に行って、あんな御馳走は初めてだった。鯛の焼き物は大き過ぎて皿からはみ出るほど大きかった。そんな焼き物までついているから、やっぱり、本当にこれからいくんやなぁと感じた。御馳走をしてくれたけど、あまりのどを通らなかった。トラックで飛行場へ行くと、すでにエンジンがかかっていた。戦隊長が一人一人、『頑張って下さい』と言って握手して回っていたけど、『無事を祈る』ちゅうと、『帰って来い』ちゅう意味になるから、『頑張って下さい』と言ったんやね。末期の水にと一升瓶に水を満たして持って行った」

昭和20(1945)年5月25日、花道と前夜、涙を流した桜井伍長が搭乗したト号機は、2機のさくら弾機と沖縄を目指し、大刀洗飛行場を出撃した。

滑走路のモノクロ写真
写真=iStock.com/pejft
※写真はイメージです

さくら弾機の1機は、溝田彦二少尉(当時21歳)が操縦し、山中正八見習士官(航法士、同22歳)と田中彌一伍長(機関士、同22歳)、高尾峯望伍長(通信士、同18歳)が搭乗した。もう一機は、第62戦隊の福島豊少尉(同22歳)が操縦していた。

花道の乗ったト号機は溝田少尉の操縦するさくら弾機につかず離れず、敵のレーダーから逃れるため、海上150メートルから200メートルの海面すれすれのところで敵機動部隊を探して、飛行を続けた。高度を300メートルまで上げると雲で下が見えなくなるため、高度200メートルを保たなくてはいけなかった。

3機中2機は戻らなかった

さくら弾機は重い爆弾を積んでいるため速度が遅く、花道が搭乗するト号機はすぐに追いついてしまう。だが、同じ速度で航行するとト号機が失速してしまうため、辺りをひと回りしながら距離を保っていた。すると、突然、前を行く溝田機が目の前から遠ざかっていった。

宮本雅史『「特攻」の聲 隊員と遺族の八十年』(KADOKAWA)
宮本雅史『「特攻」の聲 隊員と遺族の八十年』(KADOKAWA)

沖縄地方は梅雨で、この日も天候が悪く、時々大粒の雨が風防をパンパン叩いた。東シナ海には低気圧があったのだが、情報は届いていなかった。垂れ込める雲の中、ついに溝田機を見失い、花道機は単独飛行になった。

「航空母艦か戦艦に突っ込め」が命令だった。

「偵察機が敵艦隊を探して来るが、指示された場所に行くと、もういない。どこへ行ったか分からない。それでも探せと命令される。無茶苦茶な話だった」

敵機動部隊を探すうちに燃料を使い果たし、大刀洗飛行場に戻れなくなり、鹿児島県の鹿屋飛行場に不時着した。

「最初、知覧飛行場に向かおうとしたが、知覧は滑走路が短いんでおりらへんから、鹿屋に向かった。鹿屋に緊急着陸すると、もう一度燃料を入れ直して出撃することになり、大刀洗まで戻った」

この日花道と共に出撃したさくら弾機の福島機と溝田機は戻らなかった。

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