10代将軍家治は祖父の名君・吉宗にかわいがられて育った

家治の生まれた頃(1737年)には、祖父の吉宗は未だ健在でした(吉宗は1751年に病没)。吉宗は初孫誕生を大いに喜び、家治(幼名は竹千代)を身近において育てます。

家治の父・家重は言語に障害があったようで、その言葉を理解できたのは、側近の大岡忠光のみだったと言われています。さらに、家重は酒色に溺れたともされます。そうした状況でしたので、吉宗は家重に将軍職を譲った後も大御所として、死ぬまで実権を握り続けたのでした。

伝・狩野英信作「徳川家重像」18世紀
伝・狩野英信作「徳川家重像」18世紀(画像=徳川記念財団蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

吉宗はわが子の家重に孫(家治)の養育を任せていたら、とんでもないことになると思い、自らの手元に置いたのかもしれません。家治は幼少の頃、聡明だったようで、吉宗はそれを喜び、政治の要諦を教えたとのこと(徳川幕府が編纂へんさんした徳川家の歴史書『徳川実紀』)。家治も祖父の期待によく応えて、和漢の書籍を広く読み、歴代の事績をよく暗記していました。吉宗が病となった際には、湯薬を自ら勧めたという家治。吉宗が亡くなったときには、深く慟哭どうこくしたという家治。その様子を見て、周りの者は感動したようです。吉宗と家治の関係性がよく分かる逸話です。