豊田一族の社長就任は50代中盤以降まで待たれている

トヨタ自動車のうまいところは、無理に世襲を敢行しないところである。父子の年齢差は30歳くらいあるので、父が子にダイレクトに社長を譲ると、一気に30歳若返ってしまう。仮に父が70歳だとすると新社長(子)は40歳。当然、本人は経験不足で、周囲の役員はみな年上。非常にやりづらい。

トヨタ自動車では、豊田家の人間が50代中盤になるまで社長就任を待っている。豊田家に適材がいなければ、サラリーマン社長を登用している。この姿勢は、3代目社長に就任した大番頭・石田退三の考え方を踏襲しているようだ。

石田は「トヨタでは、佐吉さん、喜一郎さんを表面に立てなきゃ役員にはなれないからね」という反面、喜一郎のベンチャー精神が「危なっかしくてみていられない」と漏らすなど、シビアな目で創業者一族の能力を見極めていた。

石田は「どうも二代目はボンクラが多い。豊田一族だろうが関係ない」といって、1975年に豊田自動織機製作所専務・豊田幸吉郎をヒラ取締役に更迭してしまった。幸吉郎は豊田利三郎の長男で、佐吉翁の最年長の孫である。一族に与えた衝撃は計り知れなかっただろう。だが、この創業者一族に対するシビアな姿勢は、その後もトヨタグループに脈々と受け継がれたのである。

自社株を0.13%しか持っていなかった豊田章男を旗印に掲げた

その一方で、オーナーの豊田一族を効果的に使うことも忘れていない。

1950年のトヨタ危機で分離されたトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売。両社の合併はトヨタ首脳の悲願だったが、トヨタ自動車販売の実質的な創業者・神谷正太郎はそれを認めようとしなかった。そこで、トヨタ自動車工業は1979年に豊田章一郎をトヨタ自動車販売副社長に派遣し、両社の合併を模索したといわれる。1980年に神谷が死去すると、翌1981年に章一郎はトヨタ自動車販売社長に就任して工販合併を成し遂げ、新生・トヨタ自動車の社長に就任したのだ。

2000年代に入って社長・渡辺捷昭かつあきの拡大戦略で、トヨタ自動車は2008年に世界一の自動車メーカーに成長したが、2009年秋の世界同時不況で拡大戦略は一転して裏目となった。そして、2009年度末の決算で71年ぶりに営業赤字への転落を余儀なくされる。急激な経営不振を打開するため、元社長・奥田ひろしは「グループには求心力が必要である。グループ求心力のための旗が必要であり、旗を持っておきたい。それが豊田家である」と語り、章一郎の長男・豊田章男をトヨタ自動車社長に抜擢した。

東京オートサロンの会場で撮影に応じるトヨタ自動車の豊田章男会長(中央)=2024年1月12日、千葉市の幕張メッセ
写真=時事通信フォト
東京オートサロンの会場で撮影に応じるトヨタ自動車の豊田章男会長(中央)=2024年1月12日、千葉市の幕張メッセ