日本では、6歳から15歳の子どもに教育を受けさせることが義務とされている。東京藝術大学出身の作曲家・内田拓海さんは「私は小学校から中学校までの9年間、たったの1日も通学せず、いわゆる不登校で過ごした。学校に行かないと決めたきっかけは、今もはっきりと覚えている」という――。(第1回/全3回)

※本稿は、内田拓海『不登校クエスト』(飛鳥新社)の一部を再編集したものです。

森で遊んでいる小さな男の子
写真=iStock.com/somethingway
※写真はイメージです

実は、人嫌いでも“コミュ障”でもない

私の家はトラック運転手の父と母、妹2人の5人家族。幼少期はどちらかと言えば、生活を切り詰めるような貧しい時期もありましたが、それ以外はごくごく一般的な家庭だったと思います。

父も母も、普通に義務教育を受けて育ってきていますから、そんな家庭で「学校に行かない」という選択をすることは、大きなチャレンジだったかもしれません。

「9年間ただの1日も学校に通わなかった」と聞くと、たいていの人は私に対してこう思うかもしれません。

「さぞや人嫌いで“コミュ障”なんだろうな」
「周囲や社会から離れて、引きこもって生きてきたんだろうな」

たしかに同世代の子どもとの関わりは極端に少なかったので、半分は当たっていますが、私自身は人嫌いやコミュ障ではまったくありません。むしろどちらかといえば、幼い頃から人とのコミュニケーションが大好きでした。1人で遊ぶだけでなく、近所の子どもや身近にいる大人と遊んでいることも多かったと思います。

保育園で“事件”が起きて、不登校を決めた

「人とコミュニケーションをとることが大好き」という部分は、1人で作業を進めることが多い作曲家になった今も、変わっていません。

作曲家として活動する内田さん(中央)
提供=内田拓海
作曲家として活動する内田さん(中央)。2023年12月、“個展”に出演した演奏家の仲間たちと

そんな私が、なぜ小・中学校に「行かない」と決めて、それを頑なに実行したのか?

不登校を始めるきっかけは、それより前の保育園時代にさかのぼります。今もはっきりと覚えている、明確なきっかけがありました。

母も働いていて共働きだったので、私は保育園に預けられるようになったのですが、通い始めて少しも経たないうちに、“事件”がその保育園で起きました。