「なぜ誰かに決められないといけないんだろう?」
例えば、絵を描いている私が母からこう声をかけられたとします。
「そろそろごはんだから、もう片付けなさい」
そう親に言われたら、たいていの子どもは渋々ながらも「……はーい」と絵を描くのをやめにして、食卓に向かうでしょう。でも私は絵のほうを優先したいんです。
「それはあなたが決めた予定でしょ? こっちが終わるのを待っててよ」
「何なら食べなくてもいいから!」
夜遅くまで起きていると、「もう歯を磨いて寝なさい」なんて皆さんも言われたことがあると思います。親としてごくごく当たり前の言葉であり、家庭の日常風景ですが、これにも反発していたくらいです。
「自分のことなのに、なぜ誰かに決められないといけないんだろう?」
そんな疑問が確かにいつも自分の中にありました。自分の中で「すべきこと」「したいこと」の優先順位が明確にあって、その優先順位を自分以外の誰かに崩される、ということに耐えられない。もっと正確に言えば、耐えられないどころか、そうされると頭の中がぐちゃぐちゃになってしまって、自分のやるべきことがわからなくなってしまうのです。
自由で楽しい生活の中で、1通のハガキが
優先順位だけではありません。「お兄ちゃんなんだから……」「男の子なんだから……」と、年齢や性別だけで“そうあらねばならない”と決めつけられることもです。
最近でこそ、こうしたパーソナリティやジェンダーに関する一元的な認識はされなくなりつつありますが、私が子どもだった2000年代前半は、まだまだそうした考え方や感覚が色濃くありました。
保育園に行かなくなった私は、自宅で絵を描いたり公園に遊びに行ったり……と自由に楽しく生活をしていました。そんな6歳の冬のある日だったと思います。
「こういうのが来たよ?」
母はそう言いながら、私に1通のハガキを見せてくれました。市役所から送られてきた入学通知書でした。
《ご入学おめでとうございます!》と、お祝いの言葉が添えられていたのを、よく覚えています。
「来年から小学生だって。どうする?」