「なければならない」に不信感を持つように
その頃の私は絵を描くことが大好き。その日も、保育園にあるクレヨンで楽しく絵を描いていました。みんなでシェアしながらクレヨンを使っていたのですが、突然、そのうちの1人が、私がまだ使っている途中のクレヨンを奪い取ってしまいました。
急な出来事にびっくりしたのですが、私がすぐにその子からクレヨンを取り返すと、その子は泣き出してしまいました。
すると、保育園の先生は私を叱りました。
「違うよ! 最初に取ったのはあの子だよ!」
そう訴えたのですが、先生は聞く耳を持たず相手にしてくれません。悔しさのあまり、私も大号泣してしまいました。
「もう、あんなところには行きたくない」
涙ながらにそう訴える私に、思うところがあったのでしょう。このようなトラブルがほかにも立て続けに起こったこともあって、母は保育園に私を預けることをやめました。
この事件の頃からかもしれません。
自分以外の誰かが決めたこと――「行かなければならない」場所や「しなければならない」ことに対して、私が不信感や違和感を持つようになったのは。
長寿教育番組でひとつだけ許せなかったこと
保育園に通わなくなった私は、近所の公園で1人で遊ぶことが多くなりました。
誰もいない公園のグラウンドに、勝手に長い穴を掘ってそこに水道から水を流して水路を作ってみたり、落ちている石を拾い集めてずっと並べてみたり……。ひとりで夢中になって遊ぶことも、これはこれでとても達成感がありました。
でも、こんなふうに公園に行くことは大好きなのですが、「公園に行きましょう」と誰かから言われるのはダメなんです。「行こう」と言われると強制されているようで、すごく嫌な感じがします。
それを象徴するような記憶がひとつあります。当時、NHKの教育番組と言えば『おかあさんといっしょ』でした。私も好きな番組でよく見ていたのですが、その番組の中にひとつだけどうしても許せないことがありました。
歌のコーナーでたまに流れる『公園にいきましょう』という歌。子どもの私は、この歌が本当に大嫌いでした。
「なんで、誰だかもわからない人に“行かされなきゃ”いけないんだ!」
天邪鬼だというのか、なんというのか。とにかくそれくらい、物心ついた頃から自分のことや行動を、他人に強要されたり、命令されることに納得できない性分でした。