幽斎の子孫・細川宗孝が江戸城で殺され、伊達家が窮地を救う
田辺城の攻め手の一人・谷衛友は藤孝(幽斎)の弟子で、攻撃するふりをして空砲を撃っていたという。幕末にも似たような話があった。
明治維新の20年前、1747年のことだ。江戸城の厠(トイレ)近くで、肥後熊本藩主・細川宗孝(幽斎の子孫)が刺殺された。犯人の板倉勝該は一族の板倉勝清を刺殺するつもりだったのだが、衣服に付いている家紋が似ていたため、誤って宗孝を刺殺してしまったのだという(幽斎が他の家紋を選んでいたらなぁ)。
宗孝はほぼ即死だったらしい。武家社会において殿中で刺殺されるとは不覚悟の極み、最悪は御家お取り潰しといわれても仕方がない。たまたま近くに居た伊達宗村が機転を利かせ、いい働きをした。「細川殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と叫んだのだ。宗孝の遺体は藩邸に運ばれ、「治療の甲斐なく死去」ということにした。併せて、子がなかった宗孝は、「弟を養子にしていた」と報告した。そのおかげで細川家は無事存続を許された(この後、細川家は家紋を図表2のようにアレンジした)。
細川家はこの件で仙台藩伊達家に大きな恩義を感じた。戊辰戦争で細川家は官軍として、仙台藩を攻める一角を担ったが、大砲は空砲を撃っていたという。歴史って、めぐりめぐっていくものなのだ。