信長と足利義昭の対立が深まると、信長にシフトした幽斎

しかし、織田信長が義昭を奉じて上洛し、やがて両者が対立しはじめると、藤孝(幽斎)は徐々に義昭から距離を置くようになった。信長と藤孝は同い年(うま年)で誕生日も近かった(藤孝が4月22日、信長は諸説あるが5月11日)からか、馬が合ったらしい。藤孝は筆マメで、京都の情勢を信長に報告して信頼を得ていた。

織田信長像〈狩野元秀筆〉
織田信長像〈狩野元秀筆〉(図版=東京大学史料編纂所/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)を加工

元亀4年(1573)2月、信長が天下を我が物顔で取り仕切るようになったことが許せず、義昭は打倒信長を掲げて挙兵。今回、見つかった古文書はその前年の8月15日のものと考えられている(当時の古文書は月日のみで、年を書かないものが多く、この古文書にも年表記がないが、信長の花押かおう[サイン]の形状から1572年のものと推定された)。

古文書では、他の幕臣が信長と距離を置きはじめた中、藤孝一人が贈答品の太刀と馬を贈ってくれたことを「あなたからは、初春にも太刀と馬をお贈りいただきました。例年どおりお付き合いくださり、この上なくめでたいことです」と感謝するとともに、近畿の領主たちを味方に引き入れるように要請している。「藤孝にすがろうとする様子は従来からの“信長像”に再考を迫る内容だ。信長の性格に関する研究が深まることを期待したい」と熊本大学永青文庫研究センター・稲葉継陽いなばつぐはるセンター長は語る(NHK)。

【参考記事】NHK首都圏ナビ「織田信長の新資料 “敵に降伏促す文書” “室町幕府中枢への書状” 読み取れることは?」

信長が政権を握ると取り立てられ、姓や家紋まで変えて取り入る

果たして、信長が義昭を京都から追放すると、藤孝はその功によって山城国長岡(京都府長岡京市)の地をあてがわれ、細川姓を捨てて長岡姓を名乗り、家紋も足利家と縁のない九曜紋くようもんに替えて、足利一門であったことを隠滅した。

ではなぜ藤孝は九曜紋を使うようになったのか。ある日、藤孝は九曜紋を付けた衣装で登城し、信長から「変わった紋様をつけておるな」と声を掛けられる。すると、藤孝は黙って信長の脇差しを指さした。そのつばに九曜紋が彫ってあったのだ。信長は藤孝の観察力とユーモアに感じ入ったという。

藤孝は古今伝授こきんでんじゅの伝承者として知られる当代一流の歌人だった。かつ、能楽に堪能。包丁さばきに優れた腕を披露した。ここまで書くと、青白いインテリっぽいが、その実、大男で武芸に秀で、怪力の持ち主だったという。剣術を塚原卜伝つかはらぼくでん、弓術を波々伯部貞弘ははかべさだひろに学び、弓馬故実を武田信豊のぶとよから相伝された、今でいう資格マニアである。