“ありがたく受け止めた”から立候補できた

上川さんは、まさにお手本だった。

外務大臣定例会見で麻生発言についての見解を求められ、こう答えた。「様々な意見があることは承知しているが、どのような声もありがたく受け止めている」。

エライ人は案外執念深いから、歯向かった人を忘れない。ありがたく受け止めたからこその、麻生派9人なのだ。

ところで今回、上川さんを追いかけてわかったのは、とても優等生だということだ。記者に問われる時、または演説でも、自分の意見を言う前に全体を俯瞰してしまう。

例えば共同記者会見で「災害への対応」について問われた。上川さんはまず「自然災害の被害が世界的に大きな課題になっている」と語りだし、次に「日本は自然災害の可能性の高い国だ」と続けた。うーん、それは私でも知っているぞ、と思う。

上川さんが好きな言葉は「しっかり」だ。

いろいろな場面で使うが、要はしっかり取り組むということだ。全体像を捉えた上で、確実に取り組み、処理能力が高い。そういう人なのだろうと想像つく。

そして上川さん、あまり己を出さない。いつも同じ調子で張り切っている。同じ調子=安定も、上からの受けがいい。などと書いたのは、すぐに感情を顔や口に出した己のダメダメ会社員人生があるからだ。

上川氏と高市氏は「苦労人」だった

そんな上川さんが珍しく感情をみせたのが、日本記者クラブ主催の討論会(14日)だった。

代表質問で記者から「総理になるために何をすべきで人脈をどう広げるか、その準備をしていたか」と問われた時だ。

内政、外交、必要な政策にしっかりと取り組む、そういう活動を30年間積み上げてきた、と答えたのち、「私は当選まで7年半かかってます」と言ったその声の調子に、少しだけ「反発」が感じられ、おーいいぞ、上川さんと心で小さく拍手した。

上川さんは40歳の時に政治を志し、地元静岡に戻った。

3年後の選挙は無所属で落選、4年後(2000年)の初当選も無所属で、自民党にすんなり入ったわけではない。「当選まで7年半」は党の演説会でも言っていて、苦労したからこそ誇りでもあるのだろう。

当選までに苦労したのは、高市さんも同じだ。

1992年に地元奈良県から参院選に無所属で立候補、落選。自民党公認で出るはずが、党県連会長に阻まれた。負けん気魂に火がついた高市さん、翌年、無所属で衆院選に立候補、当選した。

トップ当選した無所属の高市早苗さん こぶし突き上げ勝利宣言
写真=共同通信社
第40回衆院選挙の奈良全県区で、トップ当選した無所属の高市早苗さん。初当選を果たし、父親の大休さん(右)、母親の和子さん(左端)と万歳して喜んだ=1993(平成5)年7月18日午後8時15分、奈良市宝来町の選挙事務

前回の自民党総裁選で高市さんの著書をまとめて読んだ。最初の立候補の時の高市さんは、簡単にいうとおじさんたちにだまされた。そう知ったのは『高市早苗のぶっとび永田町日記』(サンドケー)だった。

自民党公認候補者の座から滑り落ちた時のことを高市さんは「正々堂々と戦わせてもらえなかったことへの怒りと悔しさ」と書き、その構図を「ドロドロ根回し選挙であり、典型的なムラ型選挙の縮図だった」と書いている。

男社会、それも古いおっさんたちにしてやられた。その悔しさがひしひしと伝わってきた。

立候補前に書いた『30歳のバースディ』(大和出版)の最後の一節は「頑張っている同性の皆さん、一度っきりの人生だもの、自分に気持ちいいように生きようネ!」だった。女性同士>男社会。それが高市さんだった。

あっぱれな右側通行の高市さんは、本当の高市さんだろうか。最初の方でそう書いた。若い日の思いにこだわっていたら、出世などできないのだ。