上皇后の後継者といっていい内親王の歌

愛子内親王が和歌を研究テーマに選ぶ上で、祖母である上皇后の歌が大きく影響している可能性が考えられる。

しかも、和歌は皇室の伝統でもあるのだ。

1950年頃の、宮中歌会始の様子
1950年頃の、宮中歌会始の様子(写真=1951年12月8日発行 櫻菊会「皇室のお寫眞」/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

内親王の研究の成果は、今年の歌会始(お題は和)で詠まれた「幾年の難き時代を乗り越えて和歌のことばは我に響きぬ」に示されている。

難き時代とは、直接には、内親王が大学に入学した年から経験したコロナ禍のことをさすであろう。対面授業は4年生になってからだった。だが、日本の社会がこれまで経験してきたさまざまな苦難を含むものとも解釈でき、歌としてのスケールは相当に大きい。内親王ならではの歌とも言える。

私はこれまで、毎年上皇后の歌に着目し、いくたびも感銘を受けてきたが、その後継者が生まれたのではないかと感じている。

そこに学習院で学んだということがどこまで影響を与えているかは分からないが、少なくとも国際基督教大学に進んでいたら、和歌を研究することはなかったであろう。

戦前は定められていた「ご学友」の存在

では、秋篠宮家が学習院で学ぶことを選択しなくなったのはなぜなのだろうか。

さまざまなことが言われているが、一番大きいのは、学習院がもっぱら皇族や華族のための教育機関ではなくなり、一般の私立大学として、すでに長い歴史を重ねてきてしまったことだろう。

戦後、華族制度は廃止され、学習院で華族が学ぶことはなくなった。愛子内親王が卒業したことで、学習院で学んでいる皇族もまったくいなくなった。今後、そうした皇族が現れる可能性は極めて低い。

しかも、戦前においては、将来皇位を継承する皇族が学習院に入った場合、「ご学友」というものが定められた。昭和天皇の場合だと、学習院に校舎が一棟新設され、12名のクラスメートがご学友と定められ、ともに学び、ともに卒業していったのである。

現在の上皇にも、こうしたご学友が定められた。皇太子の時代、外国訪問が長期にわたったため、単位が足りなくなり、結局、中退することになるのだが、留年も選択肢に浮上したものの、ご学友と同じ学年でなくなることが留年を選ばなかった一つの理由となった。

現在の天皇には、戦後ということで、ご学友など定められなかった。華族がクラスメートにいないわけだから、そんなことは不可能である。