公言されない悠仁親王の大学進学先
悠仁親王はこの9月6日で18歳になり、成年皇族となった。筑波大学附属高等学校の3年生であり、その大学進学をめぐって議論が巻き起こっている。
東大に推薦で入学するのではないかという予測が立てられただけではなく、それに反対する署名運動まではじまっている。それは皇族としての特権の行使にあたり、公平であるべき入試制度が歪められるというのだ。
ただ、本人も、親である秋篠宮夫妻も、その点について公式に発言しているわけではなく、どの大学に入学しようとしているのか、それは分からない。
一方、愛子内親王の方は、今年の3月に学習院大学文学部日本文学科を卒業し、4月からは日本赤十字社の常勤嘱託職員として働いている。
これまでの皇族の場合、教育は学習院で受けるのが基本となってきた。現在の天皇も皇嗣である秋篠宮文仁親王も、そして愛子内親王も幼稚園から学習院である。
悠仁親王の場合、幼稚園から学習院を選択せず、お茶の水女子大学附属幼稚園に入園した。当時、母親の紀子妃がお茶の水女子大学で研究活動を行っていて、女性研究者を支える特別入園制度によるものだった。秋篠宮妃は、その後、論文を提出し同大学から博士号(論文博士)を授与されている。
華族学校から官立学校となった学習院
悠仁親王は、小学校も同大学の附属で中学校まで進んでいる。ただ、高校から女子校になるため、筑波大学附属高等学校に進学することとなった。それは、お茶の水と筑波の提携校進学制度によるものだった。
この制度は、悠仁親王のために設けられたものだとも言われるが、筑波大附属のサイトを見ると、現在でも募集が行われている形にはなっている。
東大の推薦入試に反対する声があがるのも、悠仁親王が一般の入試を経験せずに今日に至っているからだろう。
愛子内親王を含め、皇族が学習院に進学してきたのは、そもそも学習院が皇族や華族のための教育機関として設置されたからである。
学習院大学のサイトによれば、江戸時代の終わり、1847年に京都御所に公家の学問所が設けられ、49年に孝明天皇から「学習院」の額が下賜されたことで、学習院という校名が定まったという。明治になった77年には、神田錦町に華族学校が開設され、そこが学習院の名を受け継ぐことになった。したがって、皇族や華族という特権階級の教育機関である学習院は、法律によって宮内省立の官立学校となった。
しかし、戦後になると華族の制度は廃止され、それにともない、学習院も1947年に私立学校、1949年に新制の私立大学として改めて開学されることになった。それでも皇族は学習院を選んできたのである。