パリオリンピックの「誤審騒ぎ」は間違っている
パリオリンピックも終盤、メダルをめぐってアスリートの悲喜こもごもの物語が連日伝えられている。今年はとりわけ「審判のジャッジ」をめぐる話題が多い。
試しにネットで「オリンピック 誤審」と検索すると、さまざまな記事や投稿が出てくる。
柔道男子60キロ級の永山竜樹選手の「待て」を巡る判定、同じく男子90キロ級の村尾三四郎選手の決勝での一本が取り消し、さらには男子バスケットボール、フランス戦での試合終了間際でのファウル、サッカー女子「なでしこジャパン」のナイジェリア戦でのPK取り消し……。
これらの日本選手、チームの敗退にはすべて「疑惑のジャッジ」あるいは「誤審」が絡んでいるような書きぶりだ。
こうした「誤審」によって、SNSでは審判や選手などを攻撃する言葉が飛び交っている。
居酒屋や家庭で「あの審判は」「あのジャッジは」と話題にするのはまだ許せるとしても、それをSNSで、当事者の目に触れるような形で投げつけるのは、完全に間違っている。スポーツの大前提を理解していないとしか言いようがない。
昨今の「審判叩き」は、審判に問題があるというより「審判を叩く人々」に問題があるとい断言してよいと思う。
昭和のプロ野球が残した影
いつから今回のように「審判を叩く」風潮が一般化したのか。
その背景には、長らく日本の「ナショナルパスタイム」だったプロ野球における、ファンと審判の「不幸な関係」があったと思われる。
かつてのプロ野球の審判には、元選手がなることが多かった。大昔は苅田久徳など殿堂入りするような大選手が審判になることもあったが、昭和中期以降は、選手として活躍できなかった人が審判に転身することが多くなった。
審判の現役時代を知る監督やコーチ、ベテラン選手などは「こんな大したことない奴が審判か」と軽視し、不利なジャッジをされるとあからさまに文句を言ったりした。試合後に「今日は審判のせいで負けた」と記者に話す監督も、珍しくはなかった。
こうした監督などの発言を真に受けて、「審判は選手のなりそこないがやる仕事」みたいなイメージが、一部のファンに刷り込まれてしまったのだ。
今ではプロ野球の審判になるのは狭き門だ。また審判として採用されても、その適性を厳しくチェックされるとともに、独立リーグに派遣するなど、十分な実戦経験を積まないと一軍の試合に出場することはできなくなっている。
プロ野球だけでなく、サッカーやオリンピック競技などの審判も、競技経験も積んだうえで、いずれも専門的な教育を受けて選別された優秀な人材が務めている。選手とはまったく別個のスペシャリストになっている。