気性の激しい嘉子を子どもたちは理解し、家族として支える

ただし、そんな嘉子さんに悪気はなく、気性が激しいだけだということも、乾太郎さんの子どもたちは理解していたようです。後年は関係も良好になり、乾太郎さんの長男夫妻とは一緒に金沢旅行もしていますし、三女は嘉子さんが病気に倒れた際、献身的に看病し、差し入れの料理に文句をつける嘉子さんのわがままさえ愛しく感じていたと言います。

一方、実子の芳武さんは、「母は初めての女性の法曹の一人で、男の社会で戦っていました。安心して全てを話し、相談できる夫を得ましたから、幸せでしたね」と振り返っていました。しかし、嘉子さんが再婚して三淵姓になった後も、芳武さんはずっと和田姓を名乗り続けていました。

とはいえ、芳武さんが新しい家族に馴染めなかったわけではおそらくありません。乾太郎さんは芳武さんにずいぶん気を遣っていたらしく、芳武さんのほうに寂しさや不満はあまりなかったようです。なぜなら乾太郎さんもまた、5歳のときに実の母親を病気で亡くしていて、父の忠彦さんが後妻を迎えていたため、芳武さんには寂しい思いをさせないようにという思いがあったようなのです。

裁判官同士の夫婦のため、転勤で別居婚状態になった

そんな芳武さんは、親と同じ法曹の道は選ばず、東京大学の医学部を出て医師の道に進んでいます。親と同じ道を歩む人もいる一方、親と同じ道は嫌だと思う人もいるのは当然のこと。しかも、芳武さんにとっては、実母も義父も、義理の祖父も法曹界の有名人ですから窮屈だと思ったのかもしれません。

それに芳武さんは、当時、日本で最も自由といわれるような玉川学園の小学校に通い、そこですら枠からはみ出すようなタイプ。頭の回転が速く賢い子だったそうで、学校の授業中にふらりと外に出て虫取りに行ってしまうような自由人ですから、あえて親と同じ道は選びたくなかったのだろうと、私は勝手ながら推測しています。

ちなみに、嘉子さんと乾太郎さんは裁判官同士のため、単身赴任での別居婚のような形でした。

三淵嘉子、乾太郎夫妻、1957年9月
写真=©三淵邸・甘柑荘/アマナイメージズ
三淵嘉子、乾太郎夫妻、1957年9月

検事同士、裁判官同士の結婚は時々あるので、今は任地を多少配慮してもらえるようになっているかと思いますが、基本的には2年おき、あるいは3年おきに異動があるので、単身赴任になることも多いのです。嘉子さんと乾太郎さんは、東京と甲府、浦和と新潟に離れたこともありました。日常の家事は、住み込みのお手伝いさんがやっていましたので、生活には困らなかったのでしょうが、こうした夫婦のあり方について、那珂さんはこんな話をしていました。

「父は身の回りの片付けは、自分でします。また、おしゃれですので、洋服も自分で買います。しかし、あるとき官舎の隣の方からおかずをいただいたそうです。翌日、食べたらいたんでいて、おなかをこわしたと言っていました。転勤先についていけない人を、自分で妻に選んだのだから、しかたないですよ」