神さんはうまいことデザインしはるな
昭和30(1955)年ごろ、テレビの新製品を出すに先立って、役員会が開かれた。テレビ事業部の担当者が、5、6台のテレビを持ち込み、検討が始まった。みな新しいデザインの新製品である。重役のひとりが、1台のテレビを見るなり言った。
「なんや、この仏壇みたいなデザイン!」
担当者にも言い分がある。
「テレビというのはブラウン管がありますから、それに制約されて、あとはつまみと若干の飾りだけで、どうしても同じようなデザインになってしまいます」
聞いていた幸之助が、ふいにこんなことを言いだした。
「地球の人口は今何人や」
「……」
「25、6億人おるのとちがうか。それがみな違った顔をしてるわな。これだけの同じような大きさの中で、部品もみな同じやけど、顔はみんな違うで。神さんはうまいことデザインしはるな」
“神さんのデザイン”という言葉に、頭を殴られたようなショックと恥ずかしさを覚えて事業部に戻った担当者は、さっそく改めての検討を開始した。
お客様は必ずしも「説明書どおり」に使わない
ミキサーの商品試験に幸之助が立ち会ったときの話である。
担当者が、コップ一杯の水にリンゴ一個を使い、説明書どおりの分量でジュースをつくった。それを試飲したあと、幸之助は、みずから水量を半分にしてジュースをつくり始めた。
「社長、それは困ります。その水量での実験はやっておりませんし、説明書にも書いておりません。お客様にも説明書どおりでの使用をお願いしています」
「しかし、きみ、お客様は必ずしも説明書どおりではなく、いろんな方法でお使いになるものだ」
幸之助は、濃いジュースや薄いジュースをつくり、舌触りを確かめてから言った。
「これなら発売してもええな」
幸之助は「事務の合理化」をどう進めたか
昭和39(1964)年7月、熱海で行なわれた販売会社代理店社長懇談会(通称、熱海会談)のあと、幸之助は会長でありながら、営業本部長代行として第一線に復帰し、経営の改革にあたっていた。そんな朝、突然、「今、事業部や営業所から取っている報告書、あるいは本社から出している定期的な通達を全部持ってきてほしい」と指示した。
書類は会議用の机の上に山積みにされた。しかし、1日、2日たっても幸之助は何も言わない。集めた書類を見る様子もない。
3日目に経理課長が、「これを返していただかないと仕事にならないので困ります」と言ってきた。幸之助は、「そうか。持っていきなさい」と、見もしないで返した。それからさらに日を経るうち、何人かが書類を取りに来た。が、20日たってもだれも来ない部署も多かった。
20日目の朝、幸之助は、「この書類はきょうかぎり廃止や」と言った。「20日間も見ないですむ書類を、なんで集めたり出したりしているのか。もうやめや」
幸之助は、委員会をつくって評定したりすることなく、実際に即したやり方で一気に事務の合理化をはかったのである。