2人の科学者は互いに支え合った

ウォレスはその後も“自然選択”というダーウィンの用語や“ダーウィニズム”という言葉を使って、自分のライバルと進化のつながりを一般大衆の頭に焼きつける役目を果たしたが、彼自身の貢献は軽視された。

それでも、ふたりは友好的で、たがいに相手を尊重する関係を続けた。

ウォレスは、なおも論議の的になっているダーウィンの理論を擁護し、自分の最も重要な著作である『マレー諸島』を、「個人的な敬意と友情のしるしだけでなく、彼の才能と業績を心から賛美するために」ダーウィンに捧げている。

一方ダーウィンは、当時もまだ経済的な苦境にあったウォレスを支援して、1879年に科学への貢献に対する政府年金を受け取れるようにした。

チャールズ・ダーウィン
チャールズ・ダーウィン(写真=Herbert Barraud/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ウォレスが自分の声価が低いことに不満を抱いていたふしはなく、逆にダーウィンとの関連を通じて、自分の考えが広く受け入れられると思っていたらしい。

その後の人生で、ウォレスは生物地理学や進化論に留まらず、政治学や人類学、宇宙生物学、スピリチュアリズムなど幅広いテーマに関する研究を発表した。

ただし、そういった研究は科学的思考とはとても言えないものだった。彼はまた、森林伐採、土壌浸食、外来種の導入の危険を認識していた初期の環境保護主義者でもあった。

ウォレスの名前は「ウォレス線」として残った

ふたりの画期的な論文が同時に発表されてから50年たった1908年、ロンドンのリンネ協会は“ダーウィン・ウォレス・メダル”の最初の“ゴールド・メダル”をウォレスに授与して、進化研究への貢献を称えた。

もっとも、今日までウォレスの名が残っているのは、ウォレス線とウォレシア(訳注:ウォレス線とウェーバー線にはさまれた、アジア区とオーストリア区の生物が混在する地域)だけである。

のちにリチャード・ライデッカーやマックス・カール・ヴィルヘルム・ウェーバーといった科学者が、別の種の分析をもとに、分割線はもう少し東に存在すると主張したが、ウォレスがこの地域で明確な区分を行ったことが19世紀以降の生物地理学の研究分野や動物地理区の概念の基盤になったのは間違いない。

さらに後年、この線は人類遺伝学、人類学、言語学などの分野で、差異を説明する際に使われることになる。