個人の発信と「レピュテーションリスク」
もちろん、大学側と同じ見解だけを披瀝しなければならない、わけではない。だからといって、穏当な、いかにもワイドショーのコメンテーターらしいコメント(だけ)を並べねばならない、わけでもない。実際、上脇氏も中野氏も、ともに独自の研究と見方に裏打ちされた発信をしているからこそ、メディアからの依頼が引きも切らない。
教員のメディア露出が推奨されている私立大学もあると側聞する。どこまで効果があるかわからないものの、どんな内容であれ、目立てば良い、と考える大学経営層がいるのかもしれない。
他方で、レピュテーションリスクを避けたい、との思いは、朝日新聞にも大学にも共通する。炎上しないのは当然として、可能な限り穏便な形で目立ちたい。そう考える経営層は多い。私自身、今とは別の私立大学に勤めていた頃に、取材に広報担当者が立ち会っていた。天皇や皇族をめぐるインタビューを受けたため、不穏当な中身を口走らないかを大学上層部が恐れていた、と後年になって耳にした。
蓮舫氏によるポストの「重さ」
しかし、SNSというツール、というよりも、すでにインターネットが出てきた時点で、組織、個人の自由な言論をコントロールするのは、不可能だったのではないか。
だからこそ、蓮舫氏のポストの意味は、重いのである。
「リベラル」とは何だったのか、を考えさせるだけではなく、ネット上での発言は、どうあるべきかを突きつけているからである。もし、発信の内容によって個人を縛るのであれば、組織は常にすべてを監視せねばならないばかりか、明確な基準を設けなければならない。反対に、個人に自由な物言いを許すなら、組織はレピュテーションリスクを覚悟しなければならない。
前者は、今回のように言論弾圧の誹りを免れないし、後者は、炎上の危険と背中合わせである。どちらを選ぶにしても、もはや個人の発信がマスに広がりうる時代が到来して久しい以上、安易な逃げ場はどこにもない。みんながそう腹を括るほかない。