世界水連は「新たなカテゴリー」を設立したが…
ここでTrans-womanと書かれているなかに、先に触れた米国のリア・トーマス選手が含まれる。「アンフェア」だからこそ、新たにカテゴリーを作る。それが世界水連の選択であり、2023年8月のロイター通信の取材に対し、W杯開催国ドイツの水泳連盟のカイ・モルゲンロート副会長は、「水泳選手が分け隔てなく競技に出られるイベントを開催できることを誇りに思う」と語っている。
高井ゆと里、周司あきら、両氏による共著『トランスジェンダーQ&A 素朴な疑問が浮かんだら』(青弓社)では、次のように答えられている。
こうした本や記事を読むと、世界水連の判断は、きわめて正しいようにも見える。それぞれのスポーツの特性や経緯に応じて、競技団体として判断して、ルールを作った。それでいいのではないか。トーマス選手をはじめとして、トランスジェンダーの選手たちは「オープンカテゴリー」で出場すれば良いのではないか。そう考える人がいるだろう。
しかし、実際には、昨年10月のベルリンW杯水泳では、誰ひとりとして「オープンカテゴリー」にエントリーしなかったのである。なぜなのか。ここに、この問題の難しさがある。
なぜ誰も「オープンカテゴリー」を選ばないのか
トランスジェンダーの人たちを、ひとくくりにはできないし、一般論で、あたりさわりのない内容を並べても意味がない。少なくとも水泳のトップアスリートのなかに、2023年10月時点では、新しい「オープンカテゴリー」を望んだ選手は、ひとりもいなかったのである。男性、もしくは、女性としての出場を望んだのである。
そうした人たちにとって、わざわざトランスジェンダーに特化した(に近い)枠を作るのは、差別を助長するとすら映るかもしれない。「オープンカテゴリー」という性自認をしていれば話は別だけれども、おそらくそうした人たちは、きわめて少ない。生まれた時とは異なる性別だと自分をとらえている人のほうが多いからである。
今まで排除されてきた人に居場所を作る。いかにも清く、正しく、美しい。だからこそ、あえて「オープンカテゴリー」を選ぶ選手がいなかったのではないか。座席がないから席を作ってほしい、と求めたわけではなく、今の範囲のなかに入れてもらいたい。そう希望していたからではないか。
かといって、先に参照したように、「Trans-womanの女子競技への出場はやはりアンフェア」との疑念が残る以上、この夏のパリ五輪に向けて、リア・トーマス選手が「女性」として挑戦できるかといえば、支持する人は多くないと見られる。女性の体で生まれ、その後も女性として育ってきた人たちにとっては、不平等だととらえられるからである。