クルマは廃車にするのに、なぜ家を滅失してはいけないのか

住まいに関しては、なぜか1981年以前の旧耐震物件で耐震性も断熱性も現在の水準に比べると大きく劣り、間取りや外観も古い、とても積極的に住もうとは思えないような古家であっても、できるだけ取り壊さず、とにかく利活用しなければならない、という雰囲気がある。

地方の人口減少地域で、売ることも貸すこともできないような住宅でも、なんとか利活用しようという空気が強い。

しかし、住まいもクルマと同じようなある種の消費財であり、古くて使い道がなければ、クルマを廃車にするのと同じように滅失すればよいはずだ。

逆にクルマの場合は、20年以上前のクルマであっても、走行性能も居住性も燃費もガソリン車同士を比べれば、そこまで大きな差はない(筆者も20年前の初期型フィットに乗っているが、大きな問題も不満もない)。

ハイブリッド車だと燃費は大きく向上しているが、燃費の差によるガソリン代の差は10万km走ったとしてもせいぜい数十万円で、新車の製造コストやCO2排出を考えれば、古いクルマに乗り続けるほうが合理的だとも言える。

しかし、住まいのように古いクルマに乗り続けよう、古いクルマを利活用しよう、といった声はとんと聞かない。

車の運転をする人
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日本の生活は戦前と戦後で大きく異なる

耐震性や断熱性が低く、間取りや外観も古い住宅でも安易に滅失することなく利活用の方法を考えなければならない、という雰囲気が社会にあるのは、おそらく一部の人たちの「欧米では古い住宅に手を入れながら住み続けている。それに比べて日本の住宅はスクラップ&ビルドを繰り返しておりけしからん」という論調の影響だろう。

しかし、欧州の家が昔と変わらないのは、欧州では100年以上前から生活様式がほとんど変化していないことが背景にある。

100年前と比べて、馬車がクルマになり、ランプが電気になり、手紙がスマホになりといった変化はあるが、基本的には同じものを食べ、同じ服を着て、同じような仕事をし、同じように生活している。

一方、日本は戦前までは比較的伝統的な生活が残っていたが、戦後は服が和服から洋服になり、食事も欧風化し、住まいもエアコンがない夏を前提としたものからエアコンを使うための機密性の高いものになり、畳に座る生活から、椅子に座る生活になったように、生活様式そのものが大きく変わっている。