最初に誠意を見せれば、原作者もドラマ制作に協力する
最初から全話分の脚本(もしくはプロット)を用意して、原作者にプレゼンしないのは、あわよくばテレビ向けにストーリーやキャラを変えたいという狙いがあるからではないか。しかし、「ミステリと言う勿れ」は、キャラクターの性別や兄妹の設定が原作から変わっていたが、事前に全話の台本を用意し、それを読んだ原作者はOKをしたということになる。ドラマはドラマで好きにやってくれという原作者は変更を許可するだろうし、「セクシー田中さん」の芦原氏のように変えてほしくないという原作者なら、その意向に従わなければならない。撮影前に台本を完成させておいても、結果は同じだ。
まず、テレビ局が事前に台本を全話用意するという誠意を見せれば、いざ撮影が始まってから台本を変更する必要が出てきても、ほとんどの原作者は耳を傾けるのではないか。
芦原氏を「極めて危険」と言った小学館は変わる必要がある
最後に、出版社サイドで仕事している身として、提案したい。小学館は、作家を守るため、脚本が全話できあがってからの映像化許諾を自社ルールとすべきだ。
同社の報告書では、芦原氏を「(原作どおりの映像化にこだわる)難しい作家」と書いていたが、なぜ「難しい」という表現になるのか。それは、出版社としてコミックの売り上げを伸ばすため、テレビ局とは仲良く連携してドラマ化を進めたいという思惑があるのに、原作者がそのプロジェクトを「難しくしてしまう」という意味合いがありそうだ。
担当編集者は脚本の修正を聞き入れてもらうため、日本テレビのプロデューサーを電話で説得したとき、「芦原氏は初めの時点で話したとおり改変を容易に認めることのない作家で、これ以上押せば極めて危険で、全てをひっくり返す騒ぎになりかねない」と言ったという。「極めて危険」というのは、編集者とプロデューサーが進めるメディアミックスのプロジェクトにとってのリスクという意味合いか。本来なら、編集者はあくまで原作者側に立ち、作者の思いを伝えるべきだったのではないだろうか。
そして、やはりどうしても版元が当てにならないのなら、漫画家や小説家がマイルールとしてもいい。「最終回までの台本を出してくれなければ、ドラマ化は許可しませんよ」と。日本テレビの報告書には、プロデューサーの声として「今回の件で原作もののハードルが上がった」というコメントがあった。そう、「セクシー田中さん」事件後の今なら、著作権をもつ原作者は本来の権利を行使し、もっと強気に出られるはずだ。それこそが、悲しいことだが、芦原氏がその死をもって打ち破った壁なのだから。