朝6時から夜12時まで無償で働く信者たち
阿部令子の選挙戦には全国から600人ほどの信者が動員され、戸別訪問や電話作戦、ウグイス嬢や銀輪作戦(自転車で応援にまわること)などの活動が割り当てられた。運動員となった信者は寝食を忘れて猛烈に働く。もちろん無償だ。
ほんの一例だが、戸別訪問の場合、朝は午前6時には出発し、夜も可能なかぎり遅くまで動き、午後11、12時になると駅頭で阿部の支持を訴えた。2時間に1回、獲得した票数を電話で選挙事務所に報告する義務が、運動員には課されていた。
統一教会の選挙運動は、違法行為も厭わない。阿部の選挙戦を手伝った元信者が、その実態を赤裸々に話す。
「選挙終盤には、自民党の別候補と共産党候補を誹謗する出所不明のビラが、上の組織から降りてきて、夜11時すぎから撒いたこともありました。朝の出発式に阿部さんがやってきて、『私は誹謗中傷されているが、お父様(文鮮明)のためにこの使命を全うしたい』『御父母様(文鮮明夫妻)の御名をとおしてお祈りいたします』と言ったのを聞きました」
国際勝共連合も永田町への侵食を試みていた
阿部が統一教会の信者であることを察知した私や「朝日新聞」などがキャンペーンを張り、事実を明るみに出したため、その後、選挙に出馬することを断念したが、教団は本気で国会議員をつくろうとしていたのだ。
政治への接近、侵食を試みていたのは教祖・文鮮明だけではない。
当時、統一教会、国際勝共連合の初代会長の職にあった久保木修己も熱心な動きを見せていた。
1960年代、新宗教の創価学会が勢力を急拡大しており、1961年には国会議員の誕生をめざして公明政治連盟が創設される。1964年には公明党を結成し、翌1965年の参議院選挙で11人が当選を果たした。創価学会が国政で議席を得たのを目の当たりにした久保木は、政治の絶大な力を理解していた。教団に計り知れないメリットをもたらす自前の国会議員を生み出そうとしたのは、当然だったのである。