留学生の規制に反対するワケ
留学生がいるチームが優勝すると、「勝利至上主義でいいのか?」という声が必ず上がる。しかし、裏を返せば、今回のように留学生の起用区間を厳しく限定することも、日本人による“勝利至上主義”とは言えないだろうか。
この問題については、5月9日に放送された「ABEMA Prime」でも取り上げられた。筆者も、桜美林大学駅伝部総監督の真也加ステファンさんと共に番組にコメンテーターとして出演したが、彼の「留学生はトラック(競技)で活躍するためではく、駅伝のために来ているんです」という言葉が印象に残っている。
走れる距離が短くなり、駅伝の“活躍度”がダウンすれば、留学生の居場所はなくなってしまう。また真也加さんは、「これからはミックス(ルーツ)の選手も増えてくる。その子たちが『あの選手は留学生では?』と言われるかもしれない。だからこそ、区別するのではなく、一緒に切磋琢磨してレベルアップしてほしいと思います」とも話していた。
近年の国内スポーツは、「カタカナ」の名前の選手が増えている。彼らは両親もしくは片親が外国出身者だ。また漢字の名前でも日本人と外国人のミックスという場合もある。
名前や見た目で、日本人と外国人を判別するのは難しい時代になっている。国際化が進み、多様性が叫ばれている時代。留学生を締め出すような新ルールには共感できない。日本人は“速すぎる留学生”に嫉妬しているだけではないだろうか。
高校駅伝の参加校は減少傾向で男女ともピーク時と比べて、半数近くまで落ち込んでいる。陸上競技部がありながら、「駅伝チーム」を組めない学校が増えいるのだ。
駅伝は日本独自のスポーツだ。次走者のことを考えて走り、チームの思いと各走者の汗が染み込んだタスキをつなぐ。この競技を世界に発信しないなんてもったいない。
イソップ物語の「北風と太陽」ではないが、強引にルールで規制するのではなく、寛容的になることで“適正な状況”に落ち着くこともある。
留学生のなかには駅伝が主な目的ではなく、日本のことを学びたいという者もいる。しかし、現状では、速くない留学生が高校駅伝に出場しにくい部分がある。
駅伝の普及・国際化を重視するなら、留学生の区間を限定するのは時代遅れであり、個人的には留学生の人数を制限する必要もないと思う。走力や肌の色に関係なく、高校駅伝への参加者が増えれば、日本人の長距離選手の底上げにつながるはずだ。