1位 ダンディズムや“男の美学”に憧れる

かつての日本では、人々が以下のようなことを平然と口にしていた。

「妻子を養ってこそ男は一人前」「女はお母さんになることが一番幸せだ」「男らしい態度を見せろ」「女性らしいきめこまやかさを持て」

今日、社会的地位の高い人物が、公の場でこうした昭和的なジェンダー観に基づいた発言をすることで批判され、「誤解を招いたのならお詫びする」と釈明するのはよくあるパターンだ。つまり、全員の意識が変わったわけではないが、少なくともそれを口に出すことが不適切とされる社会であることは確かなのだ。

今や理想の男性像、女性像という考え方もなきに等しくなっている。昭和時代には、フィクションのなかの人物が理想の男性像、女性像として共通認識化されることが多かった。人気刑事ドラマ『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)、『西部警察』(テレビ朝日系)などにおいて、石原裕次郎が演じた人物は佇まいに貫禄があり、部下の暴走やミスには寛大で、女性には徹底的に優しく、会話はウイットに富んでいた。

一方、高倉健は寡黙でストイック、かつ自己犠牲の精神にあふれた人物を映画で演じることが多かった。損をするのを承知で誰かのために行動を起こしていた。そこに“男の美学”を見出す人は多かった。

さて、多様な男性像、女性像が尊重されるべき現代において、裕次郎や健さんの演じたキャラに憧れるのは不適切なのだろうか?

そんなことはない。「男はかくあるべきだ」と一般化するのではなく、「自分にとって理想の男性像である」と個人が考えるのは自由だからである。むしろ、裕次郎や健さんが演じた、面倒見がよく懐が深い人物や保身を最優先にしない人物は、今の社会にこそいてほしい存在かもしれない。

2位 「コンプライアンス」で責任逃れしない

日本で「コンプライアンス」という言葉が頻繁に用いられるようになったのは2000年代のこと。法令を遵守し、社会の規範や倫理を守り、公正な経営を行うことで企業価値が高まると考えられるようになった。

いうまでもなく、昭和の日本でそんな言葉を使っている人はなきに等しかった。たとえば、当時は課長だった“島耕作”もそんな言葉は口にしていない。

今日、「コンプライアンス」というワードが発せられる機会のなんと多いことか。ここまで言葉が独り歩きすると、本来の意味を理解せずに使う人が増えてくるようになる。

そして、ボンヤリとした意味の「コンプライアンス」が、前例踏襲主義、事なかれ主義、責任逃れの免罪符として、都合よく使われかねないのだ。

そもそもの問題の本質を理解しようとせず、「コンプライアンス云々」で、ブレーキをかけ、思考を停止させることは、ビジネスのうえでベストな選択ではないはずである。

3位 自由闊達に政治談議をする

「音楽に政治を持ち込むな」。ミュージシャンが政治や社会に批判的な発言をした場合などにSNSでこうした声を上げる人がいる。海外のミュージシャンが政治批判をすることはよくあることなので、発言者は総ツッコミを受けるのが常だ。

ただ、この件で、現在は政治の話をすることを嫌悪する人、不適切だと考える人がいる社会だということがわかる。「政治はダサい」という感覚を持つ人も少なくないかもしれない。

一方で、昭和期では政治談議は日常の風景だった。理髪店で理容師と客が政治家を批判していた。タクシーの車内でドライバーが客に「お上」への不満を述べることもよくあった。テレビでは政治が笑いのネタにされ、新聞や雑誌には風刺漫画が連載されていた。文学にも映画にも音楽にも、政治が持ち込まれていた。

さて、政治について自由に話せる社会と、政治の話がしづらい社会。どちらが健全なのだろうか?