山口の職人が一転、東京のホテルマンに
恩義以上のものを受けたと考えた若林氏は、コロナ禍が落ち着いてきた頃合いを見て、旭酒造社長の桜井氏に「おたくの社員の方もうちへ働きにいらっしゃいませんか」と提案する。啐啄同時というところであろう。桜井氏は「ぜひ!」と応じた。
これが「交換留職」の始まりである。
桜井氏の語り口は静かだが熱意が伝わってくる。
「当社は、30~40名ほどだった会社が急成長したこともあって、社員の平均年齢が29歳くらいと若かった。若いメンバーが多いということは社会経験が必ずしも十分ではないことにもなり得ます。若林社長からお声がけを受けて、うちの社員にとって大きな勉強になるし、非常に面白い試みになると確信して、とんとん拍子に話が進みました」
旭酒造が出向者第1号として選抜したのは、日本酒造りの要である酒蔵の責任者「蔵長」であった。
「蔵長さんがいらっしゃると聞いて、どんなおじさんが来るのかと思っていたら、まだ30代半ばの若い男性でした」(若林氏)
サービス業の経験がほとんどない職人気質の人であるとしたら、東京のホテルでお客様をお迎えして「いらっしゃいませ」と声に出して挨拶するのは実に勇気のいる第一歩になるであろうと、若林氏は互いの社員にとって有意義な試みになると期待した。以後、旭酒造からは、おおむね2カ月の「留職」期間を目安に、社員を次々と派遣することになった。
革靴で立ちっぱなし…目配り、気配りで疲労困憊だった
その一人、脇園大輝氏(26歳)は、若手が2人1チームとなって“獺祭の匠”となるべく手造りのように製造する新ブランド酒「獺祭 登龍門」のスタッフであった。将来を嘱望されるエキスパートである。旭酒造に入社する前の大学時代の4年間、イタリアンレストランでアルバイトをしていた経験もあった。
その脇園氏にとっても、ホテルのレストランで革靴を履いて、ほとんど立ち通しで接客するのは経験のないことであり、はじめの2週間ほどはとにかく足が疲れてならなかった。米やもろみなど、目の前にあるものとじっくり向き合う日々とはまるきり変わり、常に360°の目配り、気配りを求められる職場に立つとすれば、疲れるのは足ばかりではあるまい。
脇園氏が旭酒造で担当している仕事に、麹づくりの「製麹」と呼ばれる工程がある。
「毎日、2.4トンもの米を、もろみと合わせながら麹へと育ませていきます。大量の米を水に浸して吸収させる工程では、わずか15秒、30秒といった時間の違いで米の水分含有率が1%単位で変わる。1秒ごとに0.1%単位で調整を図っていって、酒の出来具合を高めています」(脇園氏)